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解 説

3.『日本の軍事制度と軍事思想に対するクラウゼヴィッツの影響』

 防衛力は、侵略を排除する国家の意思と能力を表す安全保障の最終的担保であり、その機能は他のいかなる手段によっても代替し得ない。このことから、政府は、防衛力の適切な整備を進め、その維持・運用を図ると共に、日米安保体制を堅持し、その信頼性を高める努力を行っている。その一方で、日本国憲法は、第9条において、戦争の放棄、戦力の不保持、国家による交戦権の否認を規定している。このような憲法上の理想と防衛政策における現実とのギャップは、どのように考えられているのであろうか。

 もとより、わが国が独立国である以上、この規定は、主権国家としての固有の自衛権を否定していないことは明白である。政府は、このようにわが国の自衛権が否定さない以上、その行使を裏付ける自衛のための必要最小限の実力を保持することは、憲法上認められると解釈している。したがって、わが国が憲法上保持し得る自衛力と自衛権そのものは、必要最小限に限定される。たとえば、政府は、集団的自衛権の行使は、憲法第9条の下で容認されている自衛権の制限を越えるものであり、したがって許されないと考えている。

 現在の阿部内閣は、自衛権、特に集団的自衛権における制限のために、憲法を改正することに関心を抱いている。内閣は、集団的自衛権における制限によって、弾道ミサイル防衛または朝鮮半島有事の場合の米国との協力に制約を受けると予想しているからである。

このような新しい国防政策が決定された時に、クラウゼヴィッツに係わる幅広い議論が行われたわけではない。しかし、私がこれまで述べたことは、永続的な平和とそのために憲法9条の維持を願う日本の人々の希望とはかけ離れた防衛政策における現実である。

 おわりに

 われわれは、次のようなクラウゼヴィッツの命題がいまだに有効性を有している世界に生きている。つまり、時代が大きく変わっても、「すべては武力による決定という最高法則の下にある」、すなわち、われわれは、武力をもってでも、新たな安全保障環境に対応しなければならないのである。

 ここで、私は、クラウス・ナウマン大将の本『平和――まだ達成されていない任務』から次のような文章を引用することとしたい。

 1991年秋の状況は、政策の手段としての戦争が決して死に絶えてはいないことを示していた。そして、より悪いことには、ユーゴスラヴィアの崩壊が示しているように、戦争はヨーロッパに帰ってきたのである。・・・ドイツは、約40年の間 、安全保障を消費し、輸入してきたが、いまや安全保障の輸出に貢献しなければならない。

 もし、われわれが世界の安定と平和に寄与する用意のある国々との共存を望むならば、これらの文章は、現在の日本の状況にそのまま当てはめることができる。

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更新日:2007/12/06

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