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    <updated>2009-07-22T03:12:11Z</updated>
    <subtitle>「戦争論」の著者カール・フォン・クラウゼヴィッツ（Carl von Clausewitz）の業績を顕彰し、日本における「戦争論」を中心とする戦史・将来戦・安全保障のあり方などについての研究を促進し、あわせて会員相互の親睦をはかる</subtitle>
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    <published>2009-07-22T03:11:51Z</published>
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    <title>日本クラウゼヴィッツ学会報《 第８号 》</title>
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    <published>2009-07-15T09:33:12Z</published>
    <updated>2009-07-15T09:33:59Z</updated>

    <summary>  								〈巻頭言〉 									「戦争論と日本・日本人」（その...</summary>
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        <![CDATA[ <table width="680" border="1" bgcolor="#ffffcc">

								<td style="padding-left: 10; padding-right: 10; padding-top: 10; padding-bottom: 10">〈巻頭言〉<br>
									「戦争論と日本・日本人」（その７）<br>
									日本クラウゼヴィッツ学会会長　　郷田　豊 ・・・・　　1<br>
									<br>
									〈特別寄稿〉<br>
									「クラウゼヴィッツ翻訳に関する断想」（２）<br>

									韓国徐羅伐軍事研究所長　　李　鍾學 ・・・・　　6<br>
									<br>
									〈特別寄稿〉<br>
									「２１世紀の日本の国家戦略と外交」<br>
									戦略研究家　　重松正彦　・・・・ 15<br>
									<br>
									〈文献翻訳〉<br>

									現代語訳：クラウゼヴィッツ著「普国大敗記事」（その５）<br>
									日本クラウゼヴィッツ学会理事　戦史研究家　　篠原昌人 ・・・・・　23<br>
									<br>
									〈研究ノート〉<br>
									「非対称戦と米国の新核戦略 ?『戦争論』テーゼからの分析?」<br>
									日本クラウゼヴィッツ学会理事　軍事問題研究会代表　　　桜井宏之 ・・・・・ 32<br>

									<br>
									〈月例研究会報告〉<br>
									「現代航空戦力の役割 ― クラウゼヴィッツの今日的意義 ― 」<br>
									日本クラウゼヴィッツ学会理事　 高橋赳彦　・・・・ 45<br>
									<br>
									日本クラウゼヴィッツ学会例会予定　　　 ・・・・・・・・・　66<br>

									<br>
									他学会（孫子学会）例会予定　　　　　　 ・・・・・・・・・　67<br>
									<br>
									編集後記　　　　　　　　　　　　　　 　・・・・・・・・　 68<br>
								</td>
							</table>
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    <title>日本クラウゼヴィッツ学会報《 第９号 》</title>
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    <published>2009-07-15T09:31:43Z</published>
    <updated>2009-07-15T09:32:59Z</updated>

    <summary>  								〈巻頭言〉 									「戦争論と日本・日本人」（その...</summary>
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        <![CDATA[ <table width="680" border="1" bgcolor="#ffffcc">

								<td style="padding-left: 10; padding-right: 10; padding-top: 10; padding-bottom: 10">〈巻頭言〉<br>
									「戦争論と日本・日本人」（その８）<br>
									日本クラウゼヴィッツ学会会長　　郷田　豊 ・・・・　　1<br>
									<br>
									〈特別寄稿〉<br>
									「ドイツ連邦軍 ? その組織改革と海外派遣」<br>

									駐日本国ドイツ大使館付国防武官<br>
									海軍大佐　ライムント・ヴァルナー ・・・・　　４<br>
									<br>
									〈文献翻訳〉<br>
									現代語訳：クラウゼヴィッツ著「普国大敗記事」（その６）<br>
									日本クラウゼヴィッツ学会理事<br>

									戦史研究家　　篠原昌人 ・・・・・　13<br>
									<br>
									〈研究報告〉<br>
									「昭和十二年の北支那方面軍の状況判断と『戦争論』」<br>
									日本クラウゼヴィッツ学会会員　岡部直晃 ・・・・・ 21<br>
									<br>
									「現代国際政治において「戦争」は手段か？」<br>

									日本クラウゼヴィッツ学会会員　倉山　満 ・・・・・ 32<br>
									<br>
									お詫びと訂正（前号落丁の訂正）　　　　 ・・・・・・・・・　44<br>
									<br>
									日本クラウゼヴィッツ学会例会予定　　　 ・・・・・・・・・　45<br>
									<br>
									編集後記　　　　　　　　　　　　　　 　・・・・・・・・　 46<br>

								</td>
							</table>
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    <title>日本クラウゼヴィッツ学会報《 第１０号 》</title>
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    <published>2009-07-15T09:30:29Z</published>
    <updated>2009-07-15T09:31:31Z</updated>

    <summary>  								〈巻頭言〉 									「戦争論と日本・日本人」（その...</summary>
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        <![CDATA[ <table width="690" border="1" bgcolor="#ffffcc">
								<td style="padding-left: 10; padding-right: 10; padding-top: 10; padding-bottom: 10">〈巻頭言〉<br>
									「戦争論と日本・日本人」（その９）<br>

									日本クラウゼヴィッツ学会会長　　郷田　豊 ・・・・　　1<br>
									<br>
									〈講演録〉<br>
									「なぜ今クラウゼヴィッツか?・・・戦争論の現代的意義」<br>
									日本クラウゼヴィッツ学会会長　　郷田　豊 ・・・・　　4<br>
									<br>
									〈文献翻訳〉<br>

									現代語訳：クラウゼヴィッツ著「普国大敗記事」（その７）<br>
									日本クラウゼヴィッツ学会理事<br>
									戦史研究家　　篠原昌人 ・・・・・　13<br>
									<br>
									〈資料紹介〉<br>
									米海軍大学教授　ミラン・ヴェゴ博士著「勝利から学ぶべきこと」<br>

									日本クラウゼヴィッツ学会理事　軍事問題研究会代表　　 桜井宏之　訳・・・・・　20<br>
									<br>
									〈月例研究会報告〉<br>
									「スペンサー・ウィルキンソン」― イギリスの一般大学で最初の軍事史の正教授となった男 ―<br>
									軍事思想史研究家　片岡徹也・・・・・ 25<br>
									<br>
									編集後記　　　　　　　　　・・・・・・・・　 44<br>

								</td>
							</table>
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    <title>日本クラウゼヴィッツ学会報《 第１１号 》</title>
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    <published>2009-07-15T09:26:54Z</published>
    <updated>2009-07-15T09:28:22Z</updated>

    <summary>  								〈巻頭言〉 									「戦争論と日本・日本人」（その...</summary>
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        <![CDATA[ <table width="680" border="1" bgcolor="#ffffcc">
								<td style="padding-left: 10; padding-right: 10; padding-top: 10; padding-bottom: 10">〈巻頭言〉<br>

									「戦争論と日本・日本人」（その10）<br>
									日本クラウゼヴィッツ学会会長　　郷田　豊 ・・・・　　1<br>
									<br>
									〈特別寄稿〉<br>
									「イラク戦争の特色に関する最初の考察」<br>
									ドイツクラウゼヴィッツ学会会長　元ＫＦＯＲ司令官　ドイツ連邦軍大将（退役）クラウス・ラインハルト<br>

									訳 防衛大学校教授　　川村康之・・・・・ 　５<br>
									<br>
									〈特別寄稿〉<br>
									「自衛隊のイラク派遣について」　：　易経と孫子に聞く<br>
									戦略研究家　　重松正彦・・・・・ 10<br>
									<br>
									〈研究ノート〉<br>

									「戦争の一側面 ? 戦争と祝祭」 ： ロジェ・カイヨワの『戦争論』を中心として<br>
									防衛研究所戦史部主任研究官　 石津朋之・・・・・ 16<br>
									<br>
									〈文献翻訳〉<br>
									「1806年10月の大事変に関する歴史書簡　第一書簡（1806年12月19日）」<br>
									カール・フォン・クラウゼヴィッツ<br>

									訳 早稲田大学大学院教育学研究科　 中島浩貴・・・・ 　28<br>
									<br>
									〈月例研究会報告〉<br>
									「1806年10月の軍事的大事件に関する歴史書簡」<br>
									戦史研究家　　篠原昌人・・・・　　37<br>
									<br>
									〈月例研究会報告〉<br>

									「『兵学』の今日的意義」 ： 「新しい戦争」の時代にこそ必要とされる学問<br>
									軍事問題研究会代表　　桜井宏之・・・・　　45<br>
									<br>
									編集後記　　　　　　　　　　　　　・・・・・・・・　 67<br>
								</td>
							</table>
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    <title>『日本の軍事制度と軍事思想に対するクラウゼヴィッツの影響』 その４</title>
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    <published>2009-07-15T09:08:24Z</published>
    <updated>2009-07-15T09:10:34Z</updated>

    <summary> III　第二次世界大戦後 							１　冷戦間 							　第二次世界...</summary>
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        <![CDATA[ <p>III　第二次世界大戦後</p>
							<p>１　冷戦間</p>
							<p>　第二次世界大戦後、日本は完全に非武装化され、戦争放棄と非武装を内容とする新しい憲法が制定された。戦後の初期には、戦争研究は排斥され、軍事問題は国民の関心の外に置かれた。したがって、一般世論は、日本の近傍で生起した中国の人民戦争や朝鮮戦争などの国際関係には無関心だった。その一方で、空想的な平和主義が受け入れられ、国連憲章に示された平和の追求が歓迎された。平和主義者は、軍隊や戦争は核兵器の時代にはもはや有効な手段ではなくなったとさえ主張した。</p>

							<p>　このような中で状況の中で、日本の自衛隊は、戦力なき国軍として設立された。というのは、朝鮮戦争の勃発に際して、米国は、早期の講和条約の締結を推進するようになり、日本を独立させて西側陣営の一員として貢献させようと努めた。1951年9月、吉田茂首相に率いられた日本の代表団は、他の48ヶ国との間で講和条約を締結した（ソ連は講和会議には出席したが調印しなかった）。</p>
							<p>　その時以降、日本は、憲法を変えていないにもかかわらず、事実上他国における軍隊と同様の自衛隊を保有している。冷戦時、自衛隊は、北海道に対するソ連の侵攻を防衛するために配備していた。日本の北海道と樺太・千島の間には、海上に共通の国境が存在していたからである。ドイツと日本は、冷戦間、中部ヨーロッパと北東アジアにおいて似たような地位に置かれ、冷戦の終結に貢献したのではなかろうか。</p>
							<p>　1970年代になると、クラウゼヴィッツの『戦争論』は、国際政治の研究者たちによって正当な研究として取り上げられ、研究成果が定期的に出版されるようになった。注目すべき傾向としては、自衛隊で防衛に関心を持つ関係者による古典の研究が見られるようになった。彼らは、軍事史や軍事思想史の研究を進め、その研究成果はクラウゼヴィッツの思想に沿ったものであった。</p>
							<p>その理由は、まさに、核大国が相互に戦うことはほとんどないにしても、どちらか一方だけが核兵器を保有し、あるいは両方が核兵器を保有していない場合には、多くの場合通常戦争を抑止できなかったからである。帝国主義の支配に対する各種の独立戦争、宗教戦争、領土紛争または単に現存している国家の統一を保つための戦争に置いて、勝利（又は少なくとも負けないこと）は、これまでと同様に重要であった。1939年以前に比べると、政府が「政治の手段としての」戦争を行うことはより困難になったが、同様に朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、アルゼンチンによるフォークランド諸島の占領やサダム・フセインによるクウェートの併合は、政治の手段としての戦争の明確な例である。</p>

<p>２　冷戦後</p>
							<p>　冷戦間、多くの戦争や紛争が世界中で生起したが、東西の対立が熱戦に転化することはなかった。ワシントンとモスクワの両政府が、対立が統制できなくなり、米国とソ連の直接対決に至ることを防止したいと望んだからである。このような状況は、1989/90年におけるベルリンの壁の崩壊によって、思いがけず突然終結した。宗教的な熱狂、長い間抑えつけられてきた民族的な対立や解決の見通しの立たない国境紛争によって、新たに暴力と戦争が噴出している。その結果、これまで想像できなかった規模で国連の平和維持活動が増加した。</p>
							<p>　このような変化は、1990年の湾岸戦争と同時に起こった。湾岸戦争においては、国連の権限委任を受けた多国籍軍がサダム・フセインによるクウェートの併合に対して原状回復のための作戦を行うこととなった。日本は、その平和主義的な政策の故に、単純にこの作戦に参加することができなかった。そして、130億ドルの巨額の資金を多国籍軍の作戦のために支出したにもかかわらず、国際社会の非難を浴びた。</p>

							<p>　このことから、日本政府は、海上自衛隊の機雷掃海部隊を湾岸戦争後のペルシャ湾に送った。これは、自衛隊の初めての海外任務であった。それ以来、自衛隊の兵士は、新たに政府が制定した国連の平和維持活動法に基づいて、カンボジア、ルアンダ、東チモールあるいはゴラン高原における国連のＰＫＯのような多数の作戦に参加している。また、9.11事件の後、日本政府は、インド洋やイラクに自衛隊の要員を派遣するために、新たな法律を制定した。すなわち、テロ対策特別措置法やイラク人道復興支援特別措置法などである。</p>
							<p>　このような安全保障環境における重要な変化に対応するために、日本政府は、防衛庁を防衛省に昇格させるという改革を今年、2007年に実行した。これと同時に、国際平和を維持するための多くの作戦は、従来の二義的な任務から、国土の防衛と並ぶ主要な任務に格上げされることになった。つまり、以下のような日本を含む国際社会の平和と安全に貢献する国際災害救援活動、国際平和協力活動、テロ対策特別措置法やイラク人道復興支援特別措置法に基づく活動は、主要任務として遂行されるのである。</p>
						<p>　防衛力は、侵略を排除する国家の意思と能力を表す安全保障の最終的担保であり、その機能は他のいかなる手段によっても代替し得ない。このことから、政府は、防衛力の適切な整備を進め、その維持・運用を図ると共に、日米安保体制を堅持し、その信頼性を高める努力を行っている。その一方で、日本国憲法は、第９条において、戦争の放棄、戦力の不保持、国家による交戦権の否認を規定している。このような憲法上の理想と防衛政策における現実とのギャップは、どのように考えられているのであろうか。</p>
							<p>　もとより、わが国が独立国である以上、この規定は、主権国家としての固有の自衛権を否定していないことは明白である。政府は、このようにわが国の自衛権が否定さない以上、その行使を裏付ける自衛のための必要最小限の実力を保持することは、憲法上認められると解釈している。したがって、わが国が憲法上保持し得る自衛力と自衛権そのものは、必要最小限に限定される。たとえば、政府は、集団的自衛権の行使は、憲法第９条の下で容認されている自衛権の制限を越えるものであり、したがって許されないと考えている。</p>
							<p>　現在の阿部内閣は、自衛権、特に集団的自衛権における制限のために、憲法を改正することに関心を抱いている。内閣は、集団的自衛権における制限によって、弾道ミサイル防衛または朝鮮半島有事の場合の米国との協力に制約を受けると予想しているからである。</p>

							<p>このような新しい国防政策が決定された時に、クラウゼヴィッツに係わる幅広い議論が行われたわけではない。しかし、私がこれまで述べたことは、永続的な平和とそのために憲法９条の維持を願う日本の人々の希望とはかけ離れた防衛政策における現実である。</p>
							<p></p>
							<p>　おわりに</p>
							<p>　われわれは、次のようなクラウゼヴィッツの命題がいまだに有効性を有している世界に生きている。つまり、時代が大きく変わっても、「すべては武力による決定という最高法則の下にある」、すなわち、われわれは、武力をもってでも、新たな安全保障環境に対応しなければならないのである。</p>
							<p>　ここで、私は、クラウス・ナウマン大将の本『平和――まだ達成されていない任務』から次のような文章を引用することとしたい。</p>
							<p>　1991年秋の状況は、政策の手段としての戦争が決して死に絶えてはいないことを示していた。そして、より悪いことには、ユーゴスラヴィアの崩壊が示しているように、戦争はヨーロッパに帰ってきたのである。・・・ドイツは、約４０年の間　、安全保障を消費し、輸入してきたが、いまや安全保障の輸出に貢献しなければならない。</p>

							<p>　もし、われわれが世界の安定と平和に寄与する用意のある国々との共存を望むならば、これらの文章は、現在の日本の状況にそのまま当てはめることができる。</p>
							
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    <title>『日本の軍事制度と軍事思想に対するクラウゼヴィッツの影響』 その３</title>
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    <published>2009-07-15T09:06:35Z</published>
    <updated>2009-07-15T09:12:00Z</updated>

    <summary> II　日露戦争から第二次世界大戦まで 							１　陸軍の作戦偏重 			...</summary>
    <author>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.clausewitz-jp.com/">
        <![CDATA[ <p>II　日露戦争から第二次世界大戦まで</p>
							<p>１　陸軍の作戦偏重</p>
							<p>建軍以来、軍部は、制度的にも単独で国防を担当してきた。彼らは、日露戦争の勝利の要因が作戦の成功のみによると過信し、1907年、攻勢作戦による速戦即決主義を採用してこれを国防方針とした。</p>

							<p>陸軍大学校の教育もまた、大軍の作戦術とその訓練に重点を指向した。これとともに、用兵思想の統一を図るため、1914年に『統帥綱領』と称する用兵上の機密教書を制定した。今日、『統帥綱領』を読む者は、これが野戦における第一線軍司令官のための指針にはなり得ても、戦争指導もしくはそれと直接に結びつく戦域軍司令官のためには、ほとんど役に立たない内容であることを見出すであろう。</p>
							<p>このことは、次の二つの重大な結果をもたらした。第一は、国家戦略不在の軍事戦略が野戦軍レベルを相似的に拡大したままで建てられるに至ったことである。クラウゼヴィッツの有名な「戦争が政治の継続である」という命題が、忘れられたのではないにしても軽視されたのである。</p>
							<p>第二は、野戦軍の用兵に形式主義と硬直化が生じたことである。そして、画一主義が全軍に広がり、クラウゼヴィッツが戒しめた方法主義の陥穴に落ちたのである。方法主義は、下級部隊の能率発揮の見地からのみ認められるが、大部隊の用兵では否定される。そして、自由活発な作戦の研究は停滞した。</p>
							<p>このことは、クラウゼヴィッツの著書に関する講義が陸大において一度も行われなかったことにも現れている。陸軍は、作戦の技術的な側面を過度に重視し、理論的な研究をなおざりにし、訓練と規律を最優先の課題として追求した。</p>
						
<p>２　政・軍関係の理論と実際</p>
							<p>　日本の軍部における独特な特徴は、統帥権の独立に見られる。統帥権の独立によって、政治と軍事は、法制上同列の地位にあった。したがって、戦争指導に当たって原理的には政治が軍事に優先すべきであると理解はしていても、法制上の政府と軍部との関係は相互の信頼と力関係によって変化させられることになる。</p>
							<p>日露戦争の際には政軍関係の逆転は生じなかった。政軍双方の首脳者たちの間に相互信頼感が強く、それぞれがみずからの責任を果たすとともに、不当な干渉をすることがなかったからである。明治天皇がすぐれた調整者の役割を果たしたことも、見落とせない。</p>

							<p>ところが、第一次大戦後の政軍関係は、時を経るに従って悪化していった。それは、戦後世界の支配的な平和の風潮に影響を受けた未熟な政党政治が国防と軍事を軽視し、軍の指導者の間に政党政治に対する不信の念が芽生えたからである。しかも、1930年代初期のアジア情勢によって、国防の重視と軍事力の充実が必要であったが、政治にはこれに即応する能力がなく、軍が独自に対応することを要求された。その結果、不可避的に政軍関係の逆転が生起することになった。この過程の中で、軍事指導者が着目し、利用したのはクラウゼヴィッツの退陣を求めたルーデンドルフの思想であった。もとよりルーデンドルフの主張が常に正しく理解されていたわけではなく、軍部の独走とこれを正当化するための経済的、思想的な支援としてのみ彼の思想が引用されたに過ぎない。</p>
							<p>前述のように、日本における統帥権独立の制度は、1878年12月の「参謀本部条例」制定による参謀本部の設置を起点としている。これは、軍令機関である参謀本部の軍政機関である陸軍省からの独立を意味している。この規定では、「政府機関」と「統帥機関」が対等・平等の地位に位置づけられている。しかし、日本における天皇の特別な地位によって、参謀本部と軍隊の指揮は、議会の統制を受けなかった。そして、軍隊は、軍人勅諭に示されているように、天皇の直接指揮下に置かれた。軍人は、政治家による統帥権の分野の侵害に対して、熱心にこの特権を防護した。時代の経過とともに、この特権は拡大解釈され、強化されていった。1930年代になると、軍部内において統帥権の独立とは行政権と統帥権との平等として、機構的には政府・行政組織からの統帥部の独立、すなわち政治一般からの軍事の独立として理解されるようになった。</p>
							<p>統帥権の独立は、第二次世界大戦前の世界で、日本だけに独特な制度であり、軍国主義の高揚をもたらした。このような第二次世界大戦以前の日本の政治と軍事の関係について、サミュエル・ハンチントンは、「日本における文武関係の法的構造は、本質的に軍の独立という構造である」とし、日本の政府が文武という異なる二つの分野で分裂しており、その原理は「二重政府」にあるとしている。</p>
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    <title>『日本の軍事制度と軍事思想に対するクラウゼヴィッツの影響』 その２</title>
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    <published>2009-07-15T09:04:12Z</published>
    <updated>2009-07-15T09:06:21Z</updated>

    <summary> I　明治維新から日露戦争まで 							１　ドイツ兵学との出会い 				...</summary>
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        <![CDATA[ <p>I　明治維新から日露戦争まで</p>
							<p>１　ドイツ兵学との出会い</p>
							<p>　新たに成立した明治維新政府は、近代国家にふさわしい軍隊を組織することを決意した。陸軍は、フランス式で建設されることになっていたが、1880年代に入ると、日本は朝鮮半島に起こった事件をめぐって清国との関係悪化に備えるとともに、軍事組織の抜本的な改革を行った。この機会に、日本の陸軍はドイツの制度に切り替え、その後第二次世界大戦までこれが維持された。切り替えのきっかけとなったのは、1870/71年の普仏戦争におけるフランスに対するドイツの見事な勝利であるが、より大きく影響したのは、ドイツの軍事制度がわが国にもっとも適しているという見解であった。</p>

							<p>　明治陸軍の軍政に大きな貢献をした桂太郎（後に大将、内閣総理大臣）は、普仏戦争終結直前とその後の数年間にわたってドイツに学び、とくにロレンツォ・フォン・シュタインの「軍事行政論」に強い影響を受けた。また、軍令上の代表者である川上操六（後の大将、参謀総長）も前後二回の留学によりドイツ参謀本部で実際の勤務を体験し、この間大モルトケの指導を受けた。</p>
							<p>1883年の陸軍大学校の開校も、大モルトケの幕僚養成の方法に学んだものである。陸軍大学校は、開校三年目の1885年に大モルトケの推挙するメッケル参謀少佐を教官に招き、約三年間その教育を受けた。この教育を受けた学生の数は60名あまりに達し、彼等の多くは、後に日清（1894?1895）および日露（1904?1905）の両戦争において中央統帥部および野戦軍の枢要な地位にあって活躍した。メッケル少佐の帰国後も、数名のドイツ人教官が相次いで来日し、それは1895年まで継続された。</p>
							<p>日本陸軍は、ドイツ第二帝政期の初期におけるドイツの軍事思想を通じて、クラウゼヴィッツの思想を主として間接的に学んだ。彼らは、師団レベルの基礎的な戦術と応用戦術に関する教育を受けた。その教育の特色は、クラウゼヴィッツが重視した理論と実際の統一にあった。この教育の成果は非常に大きかったので、このような教育法は陸軍大学の誇るべき伝統として、第二次世界大戦までそのまま継承された。</p>
							<p>参謀本部は、フォン・シェレンドルフ、ヴェルディ・ド・ヴェルノア、フォン・ブルーメなどのドイツ人将校による多数の著書を翻訳している。たとえば、ブロンザルト・フォン・シェレンドルフの『ドイツ参謀要務』（"Der Dienst des Generalstabes", 1875）は1881年に翻訳・出版され、カール・ヴィルヘルム・フォン・ブルーメの『戦略論』（"Strategie, eine Studie", 1882）は、1891年に翻訳・出版されている。これらの書籍は、新しく建設された日本陸軍にとって、参謀本部における参謀の業務をどのように遂行するのか、あるいは野戦における大部隊をどのように指揮するのか知るために不可欠であった。</p>
<p>２　クラウゼヴィッツと日露戦争</p>
							<p>　これまでにみた通り、陸軍は、クラウゼヴィッツの思想を、大モルトケ時代のドイツ陸軍を経由して間接的に学んだのであるが、彼の著書から直接学ぶ努力がまったくなかったわけではない。そして、その開始時期は意外と思えるほど早い。</p>
							<p>　1899年、森鴎外（後の軍医中将、著名な作家）は、早川大尉（後の中将、日露戦争時の参謀副長）に対して、『戦争論』の一部に関する週二回の講義をベルリンで行っている。そして『戦争論』の全巻が完訳され、軍部内に刊行されたのは1903年であり、まさに日露戦争勃発の前年のことであった。この訳本の第一、二篇はドイツ原本から森の手により、またその他の篇はフランスの訳本により陸軍士官学校が担当して重訳し、これらを『大戦学理』と題して一巻にまとめた。この書は、その後版を重ね、1934年まで続いた。</p>

							<p>日露戦争の勝利に関しては、いくつかの重要な要因が挙げられている。その第一は、当時戦争指導に携わった人々が、よく戦争の性格、本質を正しく捉えて政治と軍事の調整に見事に成功したことであり、第二は、満州の主作戦において作戦指導を担当した人々が、敵野戦軍の撃滅を意図して決勝会戦を敢行し、大戦果をもたらしたことである。</p>
							<p>この中で、第一の戦争全般の指導は、日本の伝統的な兵学と明治維新の経験により多くを依存する。第二の戦場における作戦については、クラウゼヴィッツおよびドイツの理論に負うところがきわめて多い。</p>
							<p>日露戦争における日本陸軍とクラウゼヴィッツとの関係に触れた挿話の数は少なくない。その中で、次のような言葉だけを紹介しよう。</p>
							<p>ドイツのデュムラー出版は、日露戦争中の遼陽の会戦（1904年8月25日?9月3日）における右翼の突進を成功させた第一軍の黒木大将に対して、出版されたばかりの『戦争論』第5版を贈呈した。その礼状の中で、黒木大将は、「この書はすでに日本語に訳されており、広く読まれている。そして、今戦役においても大きな貢献を果たした。というのは、われわれ将校は、その専門知識をすべてドイツから学んだからである」と述べている。</p>
						
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    <title>『日本の軍事制度と軍事思想に対するクラウゼヴィッツの影響』 その１</title>
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    <published>2009-07-15T09:02:17Z</published>
    <updated>2009-07-15T09:03:53Z</updated>

    <summary> 　はじめに 						クラウゼヴィッツの思想は、1867年に始まった明治維新...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.clausewitz-jp.com/">
        <![CDATA[ <p>　はじめに</p>
						<p>クラウゼヴィッツの思想は、1867年に始まった明治維新による日本の国家建設以来、軍事のあらゆる分野にさまざまな影響を与えている。しかし、日本の軍人は、『戦争論』にもっとも明確に述べられている戦争の本質について学ぶことよりも、ドイツを手本として軍事行動を計画し、実行する方法を学ぶことに熱心であった。</p>
						<p>第一次世界大戦以前のドイツと第二次世界大戦以前の日本には、軍事制度や思想において多くの類似点が見られる。中でも、ドイツと日本の軍事制度は、軍令と軍政が分離されている二元主義にその特色があった。このような二元主義の制度は、統帥権の独立と呼ばれ、反クラウゼヴィッツ的な傾向を示している。日本の場合、統帥権の独立は、軍隊が政治に関与するための手段となり、最終的には第二次世界大戦における敗北をもたらした。</p>
						<p>　第二次世界大戦後、日本は完全に非武装化され、戦争放棄と非武装を内容とする憲法を制定した。戦後の初期には、戦争研究は排斥され、軍事問題は国民の関心の外に置かれた。</p>
						<p>　しかし、1970年代になると、クラウゼヴィッツの『戦争論』は、国際政治の研究者たちによって正当な研究として取り上げられ、研究成果が定期的に出版されるようになった。注目すべき傾向としては、自衛隊で防衛に関心を持つ関係者による古典の研究が見られるようになった。彼らは、軍事史や軍事思想史の研究を進め、その研究成果はクラウゼヴィッツの思想に沿ったものであった。その理由は、まさに、核抑止下においても、多数の通常戦争が生起したからである。</p>

						<p>　冷戦後、世界の安全保障環境は急激に変化している。特に、不安定・不確実な世界において、国連の平和維持活動や災害救援活動などを促進するような新しい防衛政策が生み出されている。新しい国防政策が決定されるときに、クラウゼヴィッツに関する議論が行われることはなかったとしても、このような傾向はクラウゼヴィッツの思想がまだ有効であることを示している。</p>
						<p>　本稿では、第二次世界大戦以前において、クラウゼヴィッツの思想が日本の軍事思想や軍事制度にどのような影響を与えたか、また第二次世界大戦後の日本において、クラウゼヴィッツの思想の研究がどのように評価されているかを考察する。</p>
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    <title>日本とドイツの軍事思想比較　―統帥権独立の影響―　（その３）</title>
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    <published>2009-07-15T07:51:24Z</published>
    <updated>2009-07-15T07:53:24Z</updated>

    <summary> 							III　日本におけるドイツの軍事思想の受容 							１　明...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.clausewitz-jp.com/">
        <![CDATA[ 							<p>III　日本におけるドイツの軍事思想の受容</p>
							<p>１　明治維新から日露戦争まで</p>
							<p>　幕末から明治初期の日本では、フランス式の軍事制度が取り入れられ、近代化が進められた。1867年に成立した明治政府は、近代国家にふさわしい国民軍を建設することを決意し、1872（明治5）年に徴兵令を制定した。その後西南戦争の試練をへて、1978（明治11）年に陸軍省、参謀本部と監軍部（教育総監部の前身）の三部編制となって日本の軍制が確立された。参謀本部の陸軍省からの独立は、ドイツに範をとった軍政と軍令の二元化であり、西南戦争や竹橋騒動の苦い経験に悩んだ山県陸軍卿が、ドイツから帰国した桂太郎少佐の建言を容れたことにより制定された制度である<sup>４０</sup>。</p>
							<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
							<p>　明治初期における近代化は、先進諸外国の進んだ制度や思想を取り入れることによって進められ、主として視察や留学によった。軍事面では、1869（明治2）年、山県有朋のフランス、プロシャ、イギリス、アメリカへの視察旅行が大きな意義をもっていた。すなわち、彼は、同道した西郷従道とともに明治の陸海軍の元老的な存在となり、西洋の新しい軍事制度を日本に導入したからである<sup>４１</sup>。</p>

							<p>　このような基盤の上で、初期の軍事制度の確立に大きな貢献を果たしたのは、桂太郎と川上操六である。桂は、普仏戦争終結のころとその後数年間にわたってドイツに学んだ。川上は、前後2回の留学により、ドイツ参謀本部で実際の勤務を体験し、モルトケ参謀総長の指導を受けた。そして、1885（明治18）年、桂は陸軍省総務局長に、川上は参謀本部次長に任命され、日本の軍事制度は、それによってこれまでのフランス式からドイツ式に転換されることになった。このように、山県が徴兵令によって国民皆兵を実現して軍隊の基盤をつくったとすれば、桂は、軍政面で活躍し、軍政・軍令の二元化によって天皇直属の軍隊の骨格を法制的に確立したことになる。また、川上は、のちに大将・参謀総長となり、明治初期の軍令を代表する者となった<sup>４２</sup>。</p>
							<p>　同様に、1882（明治15）年に陸軍大学校条例が制定され、翌83（明治16）年に参謀将校の養成機関として陸軍大学校が開校した。陸軍大学校は、開校3年目の85（明治18）年にモルトケの推挙するメッケル少佐を教官に招き、当時のドイツの兵学を直接取り入れることとした。メッケルは3年間日本に滞在し、熱心に教育にあたった。この教育を受けた学生の数は約６０人にのぼり、彼らの多くは、のちに日清（1894?95年）と日露（1904?05年）の両戦争において枢要な地位にあって活躍した。メッケルの帰国後も、数名のドイツ人教官があいついで来日し、これは1895（明治28）年まで続いた<sup>４３</sup>。</p>
							<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
							<p>　このように、日本陸軍は、ドイツとの緊密な交流を通じて近代的な西欧の軍事制度と思想に接した。ドイツの軍事制度に範をとることは、ドイツ統一戦争以降の世界的な潮流だったので、日本の軍事制度や思想の急速な近代化には幸いであった。クラウゼヴィッツの思想も、この過程で間接的に日本に導入された。その反面、モルトケとその後継者たちは、必ずしもクラウゼヴィッツの正統な後継者とはいえなかった。そして、日本は、彼らを通じてクラウゼヴィッツの思想を間接的に受け入れたことにより、多くの面でその後ドイツが遭遇したものと同様の問題点と直面した。</p>
							<p>　この当時翻訳されたドイツの文献では、1881（明治14）年の陸軍文庫刊、ブロンザルト・フォン・シェレンドルフ（Bronsart von Schellendorff）『ドイツ参謀要務』（原著は<i>Der Dienst des Generalstabes </i>、1875、第2版1884）がある。1884（明治17）年に大山陸軍卿がドイツ陸軍省を訪問した際、筆者で当時の陸軍大臣シェレンドルフ大将にこの訳本が贈呈されている。本書では、普墺・普仏戦争の勝利は、参謀総長が大元帥に直属していること、すなわち統帥権が独立していることによると強調されている。また、本書において初めて「統帥」の用語が登場している<sup>４４</sup>。</p>

							<p>　また、1891（明治24）年、「陸軍大学校読本」として、フォン・ブルーメ『戦略論』（辻本一貫訳、原著は<i>Strategie, eine Studie</i> 、1882）が刊行されている。これは、メッケルの基本戦術を補うために、大部隊の運用に関する参考書として発刊されたものである。ブルーメは、その後大将に昇進しており、晩年にはモルトケに関する著書が多く、モルトケの祖述者といえる<sup>４５</sup>。</p>
							<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
							<p>　同様に、1884年のフランス歩兵操典の翻訳である明治20年の操典は、1891（明治24）年制定の『歩兵操典』に置きかえられる。これは、1888年9月1日発布のドイツ歩兵操典のほぼ完全な翻訳である。この操典は、モルトケ参謀総長時代の最後のものである<sup>４６</sup>。</p>
							<p>　このほか、ヴァルダーゼー、フォン・デァ・ゴルツ、ヴェルディ・ドゥ・ヴェルノアなどの著書が翻訳されている。いずれも、モルトケの弟子たちである。</p>

							<p>　初期の軍事制度上のドイツ的な特徴は、前述のような経緯による軍令・軍政の二元化とこれにもとづく1889（明治22）年の大日本帝国憲法における統帥権の独立に見られる。それによって、法制上軍事は政治と同列の地位に置かれた。したがって、戦争指導にあたって原理的には政治が軍事に優先すべきであるとしても、法制上の政府と軍隊の関係は、相互の力関係によって変化した。つまり、時として政軍関係が逆転することがあり得たのである。しかし、日清・日露戦争に際しては、この逆転は生じなかった。政軍の首脳たちの相互信頼関係が強く、おのおのが己の責任を果たすとともに不当な干渉をすることがなかったからである。また、明治天皇はすぐれた調整者の役割を果たした<sup>４７</sup>。</p>
							<p>　また、日露戦争を目前にしたこの時期に、『戦争論』の全訳が日本で初めて出版されている。すなわち、1901（明治36）年から1903（明治38）年にかけて、『大戦学理』として、第1、第2編が森鴎外訳で、第3?第8編がフランス語訳から陸軍士官学校の翻訳で軍事教育会から出版されたのである。『大戦学理』の題名は、"Th?orie de la Grande Guerre"のフランス語からの訳である。フランス語の訳者は、ド・ヴァタリー（De Vatary）中佐である。本書は、その後版を重ね、1934（昭和9）年まで続いた<sup>４８</sup>。</p>
							<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
							<p>　日露戦争の勝因は、第一に当時の戦争指導に携わった人々が、戦争の性格や本質を正しく捉えて政治と軍事の調整に成功したことであり、第二に満洲の主作戦においてその作戦指導を担当した人々が、敵野戦軍の撃滅を意図して決勝会戦を敢行し、大戦果をもたらしたことである。第一の戦争全体の指導について、浅野祐吾は、日本の伝統的な兵術と明治維新の経験により多くを依存し、第二の戦場における用兵については、クラウゼヴィッツとドイツの用兵理論に負うところが大きいとしている<sup>４９</sup>。</p>

							<p>　日露戦争間における日本軍と『戦争論』の関係にふれた逸話として、次のようなものがある。ドイツのデュムラー出版は、日露戦争中の遼陽の会戦（1904．8.25?9.03）における右翼の突進を成功させた第一軍の黒木大将に対して、出版されたばかりの『戦争論』第5版を贈呈した。その礼状の中で、黒木大将は、「この書はすでに日本語に翻訳されており、広く読まれている。そして、今戦役においても大きな貢献を果たした。というのは、われわれ将校は、その専門知識をすべてドイツから学んだからである」と述べている<sup>５０</sup>。</p>
							<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
							<p>２　日露戦争から第二次世界大戦まで</p>
							<p>　日露戦争における勝利によって、明治建国以来の日本の基本的な軍事思想に変化が生じた。その一つは、日露戦争の勝利の要因が作戦の成功のみによるという過信であり、軍における作戦偏重の傾向が強まった。もう一つは、軍事面において欧米から自立をめざし、日本の独自性を主張する傾向である。</p>
							<p>　作戦偏重は、1907（明治40）年の攻勢作戦による速戦即決主義を採用した国防方針の制定にみられる。このことは、ドイツがモルトケの退陣ののち、作戦の技術的向上に専心して最高レベルの戦争指導に対する研究がおろそかにされたことと同様である<sup>５１</sup>。陸軍は、作戦研究のために大量の留学者を引き続きドイツに派遣するとともに、諸外国の作戦関係著書の翻訳紹介を行った。このような施策は、次のような事例に現れている。</p>

							<p>　日露戦争の直後の1909（明治42）年、国軍独自の戦法の現れとして、攻撃精神と白兵主義を強調する『歩兵操典』が制定されるが、これには、日露戦争の教訓をとり入れた1906年の『ドイツ歩兵操典』の影響が入っている。同様に、陸軍は、用兵思想の統一を図るため、日露戦争の経験をもとにして、1914（大正3）年に『統帥綱領』を制定している。『統帥綱領』は、わが国独自の軍事思想であるとしながら、その内容は『ドイツ高等帥兵の原則』に範をとったものといわれている<sup>５２</sup>。また、『統帥綱領』は、軍事機密に指定され、閲覧者は極めて狭い範囲に限定された。その後数次の改訂が行われたが、現存するものは1928（昭和3）年の改訂書のみである。この秘密教書の位置付けは、これにもとづいて各年度の陸軍作戦計画が策定され、陸軍大学校の教育の準拠となり、下級部隊の諸教範がその思想をうけて体系化されていることからも明かであろう<sup>５３</sup>。</p>
							<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
							<p>『統帥綱領』の制定は、次の二つの重大な結果をもたらした。第一は、国家戦略不在のままに、軍事戦略が野戦軍レベルを相似的に拡大して立てられるようになったことである。ここでは、「戦争は政治の継続である」という命題が忘れられたのではないにしても、軽視されている。第二は、クラウゼヴィッツのいう「方法主義」に陥って、野戦軍の用兵に形式主義と硬直化が生じたことである。クラウゼヴィッツは、方法主義が下級部隊の能率発揮の見地からのみ認められるとしたが、これが大部隊の運用にまで適用され、指揮官の自由な作戦指導のための練磨や研究がおろそかにされる弊害である<sup>５４</sup>。</p>
							<p>　その一方で、軍人によるクラウゼヴィッツ研究の代表的な論文として、武藤章中佐「クラウゼヴィッツ・孫子比較研究」（『偕行社記事』昭和8年6月号付録第705号）が書かれている。『戦争論』の要旨が簡潔にまとめられて、非常に高い理解の程度が示されている論文である。彼は、「政略と戦略の関係」において、クラウゼヴィッツ兵学の特色を「戦争は他の手段をもってする政略の継続である」、また「戦争は政略の機関であり、戦争を独立的事象とは認めず、あくまで政略遂行の一手段であるとすることにある」としている。しかしながら、それに続く一節の「統帥の独立」において、クラウゼヴィッツが「出征軍の将帥は戦地において適時適切に戦略を施行する機能を有する」と述べているとして、政治に対する軍事の独立を主張している<sup>５５</sup>。</p>

							<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
							<p>　さらに、第一次世界大戦における戦争形態の著しい変貌によって、改めて戦争研究に対する関心がめばえている。日本陸軍は、第一次世界大戦での連合国の国家総動員、総力戦体制などを研究した。その中では、村上啓作少佐（後に中将）の『戦争要論』のように、「政略」が「戦略」を指導すべきであるという論も早くから見られた<sup>５６</sup>。また、石田保政大佐『欧州大戦史の研究』（陸大将校集会所刊、昭和12）は、作戦面からの第一次世界大戦の研究である。この間、陸軍大学校で戦争理論や戦争指導に関する教育にあたっていたのは、ほかに、酒井鎬次、谷寿夫、四手井綱正、石原莞爾や飯村穣などがいる<sup>５７</sup>。その一方、陸軍の関心は、依然として作戦面に多く向けられた。1918（大正７）年版の『統帥綱領』では、明かにシュリーフェンに影響を受けた「殲滅戦」の強調が見られる<sup>５８</sup>。</p>
							<p>　その一方で、第一次世界大戦の国家総力戦の様相によって、これへの対応の必要性が感じられるようになった。そして、参謀本部の間野俊夫少佐が翻訳し、参謀次長多田駿中将が序文を寄せたルーデンドルフ（Erich Ludendorff）『国家総力戦』（原著は<i>Der Totale Krieg </i>、1935、三笠書房刊、昭和13年）は、中国との戦争が全面戦争に発展する中で出版されている。この場合、ルーデンドルフの理論は、軍の政治関与ないし政治と軍事の逆転を正当化するための支えとされた面は否定できない<sup>５９</sup>。</p>

							<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
							<p>　おわりに</p>
							<p>　第二帝政期のドイツにおける軍事思想の形成と発展においては、軍事専門主義に陥った結果として、シュリーフェン参謀総長とその後継者の時代に深刻な政治と軍事の分離がもたらされた。しかし、それによってシュリーフェンの参謀本部が非難されるとしたら、その政治上の上司、あるいは少なくともシュリーフェンと同格の政治家は、明確な政治的指針を示さず、戦争計画と外交政策の一致を確実にしなかったとしてもっと非難されるべきではないだろうか。実際、当時のドイツにおいては、政治家と軍事計画の策定者の間には大きな溝があり、自由な意見の交換は行われなかった。したがって、ベートマン＝ホルベークを含むドイツの主要なすべての政治家は、参謀総長の通知を受けて、「約15年の間、シュリーフェン計画とその政治的な意味を知っており、承認していた」のである<sup>６０</sup>。</p>
							<p>日本では、第一次世界大戦の経験を通じて国家総力戦の概念が導入され、「政戦略の一致」が強調されるようになった。たとえば、『戦争要論』では、「政略」は「戦略」に目的・方針を示すもので、概念上「政略が主で戦略が従」であるべきことが論じられた（本稿13頁を参照）。しかし、『統帥綱領』や『統帥参考書』では、「統帥権の独立」が強調されていたことから、「政戦略の一致」が図られることはついになかった。</p>
							<p>　これまで見たように、本稿で対象とした時期のドイツと日本の政治・軍事指導者は、国家としての総合的な戦略を形成し、発展させることができなかった。これは、政治と軍事の統一と調整に関する緊要な問題であり、今日においてもその重要性は失われていない。</p>

							<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
							<p>註</p>
							<p>１　中野登美雄『統帥権の独立』、有斐閣、昭和9年、2?3頁、復刻版、原書房、1973年。ここでは、統帥権という執行の作用に対して議会の監督が及ばないとする制度を「統帥権の独立」としている。なお、軍令と軍政の区分については、カール・フォン・クラウゼヴィッツ『戦争論』レクラム版、日本クラウゼヴィッツ学会訳、芙蓉書房出版、二〇〇一年、112頁以下の第二編第一章「戦争術の区分」を参照。また、「統帥権独立」の用語の軍内における定義については、前原透「『統帥権独立』の軍内での発展過程」、『軍事史学』第23巻・第3号、昭和63年1月号を参照。</p>
							<p>２　統帥権独立の制度が軍部の独走につながり、日本の敗戦をもたらしたとする旧軍人の反省を込めた著作には、以下のようなものがある。舟木繁『日本の悲運四〇年――統帥権における軍部の苦悩』、文教出版、平成九年一〇月、大江志乃夫『統帥権』、日本評論社、一九八三年。</p>
							<p>３　近代日本の政軍関係に関する研究には、以下のような著作がある。纐纈　厚『近代日本の政軍関係』、岩波書店、二〇〇五年三月、三宅正樹『政軍関係研究』、芦書房、二〇〇一年一二月。なお、欧米の政軍関係論研究者には、ハンチントン、パールマター、ファイナー、マクソンなどがあり、上記邦文の二著書にはその研究の概要が紹介されている。</p>
							<p>４　ヴァルター・ゲルリッツ『ドイツ参謀本部興亡史』、守屋純訳、学習研究社、1998年、86頁。</p>

							<p>５　中野『統帥権の独立』、209頁。</p>
							<p>６　同上、212?3頁。</p>
							<p>７　同上、237?8頁。</p>
							<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
							<p>８　ゲルリッツ『ドイツ参謀本部興亡史』、136頁、ビスマルクが解任されるのは、一八九〇年三月二〇日である。</p>
							<p>９　日本における統帥権独立の経緯とその特殊性については、中野『統帥権の独立』の外に、梅渓　昇『明治前期政治史の研究』、未来社、1978年、第二部「明治軍隊の建設」第二章「わが国における兵政分離の特殊性」を参照。</p>

							<p>１０　纐纈『近代日本の政軍関係』、284?5頁。</p>
							<p>１１　サミュエル・ハンチントン『軍人と国家』上、市川良一訳、原書房、昭和53年、130?133頁。</p>
							<p>１２　前原透『日本陸軍用兵思想史』（天狼書店、平成６年）402頁。</p>
							<p>１３　偕行社編『統帥綱領・統帥参考』復刻版、偕行社、昭和37年、9?10頁及び541頁。『統帥綱領』は、大正3年制定、大正7年、大正10年と昭和3年に改訂されている。</p>
							<p>１４　クラウゼヴィッツ『戦争論』レクラム版、43頁。</p>
							<p>１５　同上、343頁。</p>

							<p>１６　Bernard Brodie, 'The Continuing Relevance of <i>On War</i>', in Carl von Clausewitz, <i>On War</i>, Ed. &amp; Trans. by Michael Howard &amp; Peter Paret, (Princeton, Princeton U.P., 1976), Introductory Essay, p.52-53. この中で、ブロディーは、クラウゼヴィッツが戦争の本質の解明に努力し、しかもこれに成功していることを述べている。</p>
							<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
							<p>１７　R?stow, Wilherm, <i>Die Feldherrnkunst des neunzehten Jahrhunderts</i> 第2版（チューリッヒ、1867）S. 536、Werner Hahlweg, ed., <i>Vom Kriege</i>, 16版（Bonn, Ferd. D?mmler, 1952）, 'Das Clausewitzbild Einst und Jetzt', （「クラウゼヴィッツ像の過去と現在」）S. 13, Anm.30. 他の著書に多く引用される 'well known but little read' は、この1節を引用したもの。</p>

							<p>１８　ドイツ参謀本部編、<i>Moltkes Milit?rische Werke</i>, 13巻（『モルトケの軍事著作集』、ベルリン、1892?1912）、第?類、第3巻 'Strategie'（「戦略」、1912）を参照。邦訳は、『戦略論体系?モルトケ』（片岡徹也訳、芙蓉書房出版、2002）15頁。</p>
							<p>１９　Hahlweg, 'Das Clausewitzbild ...', S. 14.</p>
							<p>２０<i>Milit?r Wochenblatt</i>, Band 1（Berlin, 1873）,'?ber Milit?r-Bildung und Wissenschaft,' Hahlweg, 'Das Clausewitzbild ...', S.14, Anm. 34.</p>
							<p>２１　モルトケの著作における政治と戦争の関係については、ドイツ参謀本部編、<i>Moltkes Kriegslehren</i>　第?巻（『モルトケの戦争理論』、1911）、 'Wechselwirkung zwischen Politik und Strategie'（「政治と戦略の相互関係」）S. 13を参照。Hahlweg, 'Das Clausewitzbild ...', S. 21-22.　邦訳は、片岡『戦略論体系?モルトケ』36頁。</p>

							<p>２２　片岡『戦略論体系?モルトケ』36頁。</p>
							<p>２３　同上</p>
							<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
							<p>２４　Blume, Wilhelm von, <i>Strategie-Eine Studie</i>（Berlin, 1882）pp. 1-9. Cited in Azar Gat, <i>The Development of Military Thought-The Nineteenth Century</i>（Oxford, OUP, 1992）p. 78、Note 89.</p>
							<p>２５　Goltz, Colmer von der, <i>The Nation in Arms</i>（London, 1906）p.470, cited in Gat, <i>The Development</i>, p. 78、Note 94.</p>

							<p>２６　Bernhardi, F. v., 'Clausewitz ?ber Angriff und Verteidigung. Versuch einer Widerlegung', In: <i>Beihefte zum Milit?r-Wochenblatt,</i> (Berlin, 1911）.この中で、ベルンハルディは、「クラウゼヴィッツのこの命題は、まったく否定されなければならない」と述べている。Hahlweg, 'Das Clausewitzbild ...', S. 17. Anm.42.</p>
							<p>２７　Ebenda.</p>
							<p>２８　ベルンハルディ『ドイツの主戦論』、早稲田大学編集部翻訳・出版、1914年。</p>
							<p>２９　Craig,　Gordon A. 'Delbr?ck: The Military Historian', in Peter Paret, ed.,<i> Makers of Modern Strategy-from Machiavelli to the Nuclear Age</i>（Princeton, <st1:place w:st="on">Princeton</st1:place> U.P., 1986）. 邦訳は、『現代戦略思想の系譜?マキャベリから核時代まで』防衛大学校「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989）第12章ゴードンＡ．クレイグ「デルブリュック」を参照。</p>

							<p>３０　彼のこの命題は、Delbr?ck, <i>Die Strategie des Perikles erl?utert durch die Strategie Friedrichs des Gro?en</i>（Berlin. 1890）において取り上げられている。</p>
							<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
							<p>３１　パレ編『現代戦略思想の系譜』、第12章クレイグ「デルブリュック」305頁。</p>
							<p>３２　同上</p>
							<p>３３　Clausewitz, <i>Vom Kriege, </i>第5版へのシュリーフェンの序文。</p>

							<p>３４　パレ編『現代戦略思想の系譜』、第11章ガンサーＥ．ローゼンバーグ「モルトケ、シュリーフェンと戦略的包囲の原則」を参照。</p>
							<p>３５　同上、279頁。</p>
							<p>３６　同上、 280頁。シュリーフェンに対する批判については、 Gat, <i>The Development</i>, p. 101も参照。</p>
							<p>３７　ゲルリッツ『ドイツ参謀本部興亡史』、139頁。</p>
							<p>３８　パレ編『現代戦略思想の系譜』、280?84頁。</p>

							<p>３９　Bond, Brian, <i>The Pursuit of Victory -From Napoleon to Saddam Hussein</i>（Oxford, Oxford University Press, 1996. 邦訳は『戦史に学ぶ勝利の追求?ナポレオンからサダム・フセインまで』、川村康之監訳、東洋書林、2000年、127頁。</p>
							<p>４０　宇野俊一校注『桂太郎自伝』、平凡社、一九九三年四月、82頁及び徳富蘇峰編『公爵桂太郎伝（乾巻）』、原書房、昭和四二年一二月、334頁。</p>
							<p>４１　上法快男『陸軍大学校』、芙蓉書房、昭和48年、「明治建軍の経過」、42?3頁。</p>
							<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
							<p>４２　同上。</p>

							<p>４３　同上、58頁。</p>
							<p>４４　前原『日本陸軍用兵思想史』、143頁。</p>
							<p>４５　同上、154頁。</p>
							<p>４６　同上、162頁。</p>
							<p>４７　ドイツクラウゼヴィッツ学会編、クラウゼヴィッツ生誕200年記念論文集『戦争なき自由とは』、クラウゼヴィッツ研究委員会訳、日本工業新聞社、昭和57年、第3部、浅野祐吾「近代日本におけるクラウゼヴィッツの影響」、528頁。</p>
							<p>４８　クラウゼヴィッツ『大戦学理』、森林太郎・陸軍士官学校訳、軍事教育会、明治３５年。</p>

							<p>４９　ドイツクラウゼヴィッツ学会編『戦争なき自由とは』、523頁。</p>
							<p>５０　Hahlweg, 'Das Clausewitzbild ...', S. 52.</p>
							<p>５１　ドイツクラウゼヴィッツ学会編『戦争なき自由とは』、524頁。国防方針とその作戦中心主義あるいは政略と戦略の不一致については、黒野耐『帝国国防方針の研究――陸海軍国防思想の展開と特徴――』、総和社、2000年を参照。</p>
							<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
							<p>５２　前原『用兵思想史』、225-227頁。ここでは、『統帥綱領』と『ドイツ高等帥兵の原則』の関係が詳述されている。</p>
							<p>５３　ドイツクラウゼヴィッツ学会編『戦争なき自由とは』、525頁。</p>

							<p>５４　同上。なお、「方法主義（Methodismus）」については、クラウゼヴィッツ『戦争論』レクラム版、第二編第四章を参照。</p>
							<p>５５　武藤章「クラウゼヴィッツ・孫子比較研究」、『偕行社記事』昭和8年6月号付録第705号、21頁。</p>
							<p>５６　前原『用兵思想史』、 357-58頁。</p>
							<p>５７　例えば、酒井は第一次世界大戦におけるフランスを主とした戦争指導の戦史的教育を実施し、石原はフリードリヒ大王とナポレオンの戦争指導を対比して持久戦争の指導を教育している。ドイツクラウゼヴィッツ学会編『戦争なき自由とは』535-7頁、註（１７）?（２３）を参照。</p>
							<p>５８　前原徹「日本陸軍へのクラウゼヴィッツの影響」、『軍事史学』第19巻、第1・第2号、４「日本陸軍における殲滅戦の教義」を参照。</p>
							<p>５９　ドイツクラウゼヴィッツ学会編『戦争なき自由とは』529頁。</p>

							<p>６０　ボンド『戦史に学ぶ勝利の追求』、128頁。</p>
							]]>
        
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    <title>日本とドイツの軍事思想比較　―統帥権独立の影響―　（その２）</title>
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    <published>2009-07-15T07:49:48Z</published>
    <updated>2009-07-15T07:50:58Z</updated>

    <summary> 							II　ドイツにおける軍事思想の形成と発展 							１　ドイ...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.clausewitz-jp.com/">
        <![CDATA[ 							<p>II　ドイツにおける軍事思想の形成と発展</p>
							<p>１　ドイツ第二帝政期の軍事思想</p>
							<p>　前項で見たように、ドイツの軍事思想家クラウゼヴィッツの『戦争論』は、現代においては戦争・戦略に関する基本となる文献として評価されている<sup>１６</sup>。中でも、クラウゼヴィッツは、軍事に対する政治の絶対的な優位を説いている。しかしながら、ドイツ第二帝政期の参謀本部が大きな栄光に包まれ、軍の頭脳として称賛される一方で、クラウゼヴィッツのこのような思想は影の薄いものになってしまった。</p>
							<p>このような事情について、当時の軍事著作家ヴィルヘルム・リュストフ（Wilhelm R?stow）は、1867年、「クラウゼヴィッツはよく知られてはいるがほとんど読まれていない。われわれは、多くのクラウゼヴィッツの崇拝者を見るが、彼らのだれもクラウゼヴィッツの著作の全体を読んではいない」と書いている<sup>１７</sup>。</p>
							<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>

							<p>モルトケは、「戦略は臨機応変の体系である。......他の術がそうであるように、戦争にも普遍的に妥当する基準などはない。いずれの領域も規則で才能を代用することはできない」と述べている<sup>１８</sup>。このことは、クラウゼヴィッツの戦争理論のあり方を正しく継承しているように見える。しかしながら、モルトケ自身とその後継者たちは、ますます『戦争論』に戦争遂行における実用的な方法を求め、防御の攻撃に対する優位の思想を否定し、さらに重要なこととして、政治の軍事に対する優越の思想を拒否したのである。</p>
							<p>　ドイツ統一戦争後の軍事思想においては、したがって、クラウゼヴィッツの思想の中核的な部分は理解されないか、注目されなかった。また、戦争全体の哲学的・理論的な考察は、ほとんど無視されたままであった<sup>１９</sup>。このような状況は、1873年に出版された<i>Milit?r Wochenblatt</i>（『軍事週刊誌』）の付録にある以下のような記述によく現れている。</p>
							<p>　「ドイツの軍隊では、クラウゼヴィッツは軍事学の第一の権威とみなされている。しかしながら、『戦争論』の哲学的で難解な表現は、きわめて不評であった。また、すべての時代に適用可能な体系の確立は不可能なことが示されていることや、戦争とその本質を科学的に把握し、表現する努力は軽視された。1866年と1870／71年の戦争の偉大な成果によって、このような傾向はさらに助長された。すなわち、厳格な規律、優れた兵器、目的に適合した基本戦術、良好な行進配置、鉄道、実際的な給養方法や電信などによって、戦争は決定付けられるというのである。陸軍に広まったこのような純粋に技術者的な発想は、クラウゼヴィッツの思想とは反対の否定的な結果をもたらし、ドイツ陸軍におけるその後の方向を決定することになった」<sup>２０</sup>。</p>

							<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
							<p>２　モルトケにおける政治と軍事の関係</p>
							<p>　「政治と戦争の関係」について、プロシャ・ドイツ陸軍は、明かにクラウゼヴィッツの教えに反していた。そして、参謀総長のモルトケは、このような思想を創出した者ではなかったとしても、普墺・普仏戦争におけるビスマルクとの対立やみずからの著作から見ればその代表者だったといえる<sup>２１</sup>。</p>
							<p>　彼は、次のように書いている。「クラウゼヴィッツ将軍は戦争を他の手段をもってする政治の継続と定義した。政治は、遺憾ながらクラウゼヴィッツ将軍がいうように戦略から切り離せるものではない。......ただし交戦期間中の戦略は政治から可能な限り独立していなければならない。政治は作戦に干渉すべきではない（傍点は筆者）」<sup>２２</sup>。</p>
							<p>　同様に、モルトケは、次のようにも書いている。「政治は、戦争を政治的目的達成のために使用する。政治は戦争の開始時と終結時に決定的な影響を及ぼす。すなわち戦争の成り行きに応じて要求を引き上げるか、あるいは水準を下げて妥協した成果に甘んずるかは、政治に委ねられている。戦争の不確実さを考えれば、ただ戦略のできることは、与えられた手段で取りあえずは達成可能な最高の目標に向かい、努力することだけである」<sup>２３</sup>。</p>

							<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
							<p>　さらに、モルトケの弟子たちの著作には、当時のドイツの世界観（Welt Anschauung）を反映した国家主義的な主張が見られるようになる。ヴィルヘルム・ブルーメ（Wilhelm Hermann v. Blume）大佐（後に歩兵大将）は、その著書の中で、「文明国は利害を平和的に解決することに努力はするが、しばしば不可欠な結果として戦争がもたらされる。このことを忘れた場合、いかなる国家もみずから破壊を招く危険を犯すことになる」と述べている<sup>２４</sup>。ブルーメの著作は、『戦略論』（辻本一貫訳、陸軍大学校、1891年）として日本でも出版されている。また、アルブレヒト・フォン・ボグスラウスキー（Albrecht von Boguslawski）中将は、<i>Der Krieg in seiner wahren Bedeutung f?r Staat und Volk</i>（『国家と国民にとっての戦争の真の意味』、ベルリン、1892年）を書いている。同様に、第一次世界大戦中に参謀副長となったフライターク・ローリングホーベン（Freytag-Loringhoven）は、<i>Krieg und Politik in der Neuzeit</i>（『新しい時代における戦争と政治』、ベルリン、1911年）を書いている。中でも、コルマー・フォン・デア・ゴルツ（Colmer von der Goltz）少佐（後に元帥）は、当時のドイツの置かれた状況とイエナの敗北との近似性を指摘し、<i>Rosbach und Jena</i>（『ロスバッハとイエナ』、ベルリン、1883年）を書いて、国民の意識の改革と新しい軍事力のあり方を訴えた。また、彼は、<i>Die Krieg F?hrung</i>（『統帥』、ベルリン、1895年）と国際的なベストセラーとなった<i>Das Volk im Waffen</i>（『国民皆兵論』、ベルリン、1898年）を書いている。彼は、この中で、「戦争は、人類の宿命であり、国家の避け難い運命である」と述べている<sup>２５</sup>。</p>

							<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
							<p>　これらの著書は、クラウゼヴィッツを引用しているものの、彼の中心的な思想から離反し、狭い意味の戦略や戦術に焦点が当てられ、あるいはボグスラウスキー、フライターク・ローリングホーベン、ゴルツなどの著書の題名に見られるように、国家主義的な主張が強くなる現象が生起し、これが当時の支配的な流れとなった。</p>
							<p>　特に、著名な軍事著作家フリードリヒ・フォン・ベルンハルディ（Friedrich von Bernhardi）将軍は、「防御はそれ自体としてより強力な戦争方式である」というクラウゼヴィッツの命題を批判した<sup>２６</sup>。また、1912年には<i>Vom heutigen Kriege</i>（『今日の戦争』を出版し、「私は、まさにクラウゼヴィッツとは反対に、きわめて限定された実際的な目的を追求した」と書いている<sup>２７</sup>。さらに、彼は、<i>Unsere Zukunft</i>（『われわれの将来』）を書き、これは『ドイツの主戦論』として日本でも出版されている<sup>２７</sup>。その目次の一部「戦うはこれ権利」、「戦うはこれ義務」、「強国かはたまた亡国か」などをみれば、その内容が容易に推測される。</p>

							<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
							<p>３　デルブリュックと軍人たちの間の論争</p>
							<p>　その一方で、ドイツの軍人たちは、みずからの専門分野であると考える戦略に関する解釈でさえも独占し、政治家や学者のこの分野への介入に対して激しく反発した。これは、デルブリュックと軍人たちとの間に起こった戦略論争に現れている。</p>
							<p>　ハンス・デルブリュック（Hans Delbr?ck）は、ベルリン大学教授、国会議員、『プロイセン年報』の編集長などの経歴を持ち、この時代を代表する知識人である<sup>２９</sup>。彼は、グナイゼナウの伝記の研究を続け、次にクラウゼヴィッツの研究に進んだ。その後、大学での講義や論文をもとにして大著の<i>Geshichte der Kriegskunst im Rahmen der Politischen Geschichte</i>（『政治史の枠組における戦争術の歴史』4巻、ベルリン、1900?1920年）を書き、その第1巻は1900年に出版されている。デルブリュックは、クラウゼヴィッツを研究する中で、彼が1827年の覚書の中に書いた「二種類の戦争」という概念を発見し、これを引き継いで、「殲滅戦略（Niederwerfung Strategie）」と「消耗戦略（Ermattung Strategie）」の二種類の戦略があると主張した<sup>３０</sup>。</p>

							<p>　彼は、過去の偉大な将軍の中で、殲滅戦略の代表者として、アレクサンダー、シーザー、ナポレオンを挙げた。しかし、同程度に偉大な将軍の中で、消耗戦略によって成功を収めた将軍もいる。これらの将軍として、彼は、ペリクレス、ベルサリウス、ヴァレンシュタイン、グスタフ・アドルフやフリードリヒ大王を挙げた。</p>
							<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
							<p>　論争が起こったのは、デルブリュックが消耗戦略の代表者としてフリードリヒ大王を挙げたからである。ドイツの軍人たち、特に参謀本部の戦史家たちは、殲滅戦略だけが正しい戦略であり、フリードリヒ大王は、ナポレオンの先駆者であると主張した。デルブリュックは、フリードリヒ大王の偉大さは、彼の持つ力があらゆる場合に戦闘を求めるほど大きなものでないことを知りながらも、なお彼の戦争を勝ちぬくためにその他の戦略的原則を効果的に利用した点にあると反論した。デルブリュックの反論は、彼の批判者たちを納得させなかった。フォン・デア・ゴルツやベルンハルディは彼を批判する側に立ち、デルブリュックも喜んで論争に応じたので、これはその後20年以上にわたって続く際限のないものになった。しかし、ナポレオンとモルトケの伝統によって訓練され、短期決戦の可能性を信じていたドイツ参謀本部は、デルブリュックの消耗戦略の概念を否定した<sup>３１</sup>。</p>
							<p>　デルブリュックと軍人たちの間の論争は、重要な問題を含んでいる。すなわち、歴史はあらゆる時代において正しい単一の戦略理論などあり得ないことを示している。また、いかなる戦略システムも、それ自体で自立できるものではなく、戦略を政治から切り離そうとする試みが行われるやいなや、その戦略は国家にとって脅威となりうるのである。しかし、王朝戦争から国民戦争への移行、1864年、1866年と1870／71年の戦争におけるドイツの勝利などは、殲滅戦略が近代の戦争における自然な形であることを証明しているように見えた<sup>３２</sup>。実際に、このような理解のままに、第一次世界大戦の戦略は決定されることになる。</p>
							<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>

							<p>４　シュリーフェンの軍事思想</p>
							<p>　シュリーフェンがクラウゼヴィッツを賛美し、みずからその弟子であると称した理由は、彼が書いた『戦争論』第5版の序文に現れている。彼は、次のように述べている。</p>
							<p>　「『戦争論』の永続的な価値は、その高度な倫理的・心理的な内容に加えて、殲滅戦思想の再三の強調にある。クラウゼヴィッツにとって、戦争は『武力による決定という最高法則』の下にある。また、彼にとって、敵軍隊の撃滅は、戦争において追求し得るあらゆる目標の中で常に最高位に位置している。19世紀初頭における戦乱の時代の経験に即したこの訓えは、われわれをケーニヒグレーツとセダンへと導いた」<sup>３３</sup>。つまり、シュリーフェンは、『戦争論』における殲滅戦思想の故にクラウゼヴィッツを賛美したのである。シュリーフェンが『戦争論』から読み取ったものは、大規模な攻勢作戦によってのみ、敵の軍隊を撃破し、その抵抗意志を破砕できるということであった。そして、このような誤ったクラウゼヴィッツの理解は、当時の多くの軍人たちによって支持されていた<sup>３４</sup>。</p>
							<p>　シュリーフェンの戦略思想には、もう一つの特色があった。クラウゼヴィッツとモルトケが「摩擦」の予測し得ない効果と敵の「自由意志」を認めていたのに対して、シュリーフェンは、敵を自己の作戦構想に実質的に従わせることができると主張した。彼は、攻勢をとることによって主導性を獲得するとともに、敵の翼側に戦力を集中することによって敵を混乱させるばかりでなく、敵から実行可能な戦略オプションを奪い去ることを意図した。この計画では、動員からクライマックスをなす戦闘に至るまでの全過程が厳密に統制されていなければならず、スケジュールと決められた作戦目的を厳格に遵守することが必要であった。彼は若干の予期せぬ状況は認めていたが、彼の統制された戦略のシステムでは、事前の計画と中央集権化された指揮によって、摩擦をできるかぎり排除することを追求するものであった<sup>３５</sup>。すなわち、シュリーフェンやその弟子たちは、戦争における摩擦をできる限り予測し、克服するための教科書を求めた<sup>３６</sup>。そして、このように戦争を軍事的な側面からのみ考察しようとする思想が優勢になったことが、シュリーフェン計画の発想と1914年のマルヌへの前進につながったといえる。</p>

							<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
							<p>５　シュリーフェン計画の問題点</p>
							<p>　前述のように、ドイツにおける統帥権独立は、軍隊に対する議会の影響を排除することを目的として実現された。その一方で、軍隊は、必ずしも政治的な動機を有していたわけではなく、ドイツ統一戦争における功績による当然の結果として特別な地位が認められたものと受け止めていた<sup>３７</sup>。一方で、ドイツ参謀本部の地位に向上によって、対外的な困難な問題であっても、軍事的に解決しようとする機運が強まった。すなわち、政治と軍事の分離という危険な傾向である。このような事例は、実質的に第一次世界大戦のドイツの戦争計画となったシュリーフェン計画にみられる。</p>
							<p>　大モルトケは、いずれかの戦線で迅速に敵を撃破する攻勢作戦によって二正面作戦という問題を解決することに次第に悲観的になっていったが、シュリーフェンは、きわめて大胆な発想による計画を発展させた。シュリーフェンが退役する直前の最終案（1905年12月28日付）では、全兵力の８分の７を西部戦線での攻勢に集中し、軍の主力を北部のルクセンブルクとアーヘンのあいだに展開させ、ベルギーとオランダを通過して英仏海峡沿岸に向けて前進させ、フランス軍のフランス軍の北翼を迂回・包囲し、セーヌ河を越えてパリの南西部から巨大な車輪のように旋回するというものであった<sup>３８</sup>。</p>
							<p>　1905年から1914年までの間には、ヨーロッパでの全面戦争への潜在的な当事国間の関係や個々の大国の関与の度合いに関して多くの大きな変化があったが、シュリーフェン計画の中核となる部分には変化がなかった。つまり、シュリーフェンとその後継者は、政治的な次元をまったく無視して純粋に軍事的な計画を策定したのである。驚くべきことに、計画には（代替の計画もなく）政治的な柔軟性が欠如していたので、ドイツは、どこでどのように戦争が始まろうとも、フランスとベルギー（小モルトケはオランダの侵略を取りやめた）に対して即座に全面攻撃を行うことになっていたのである<sup>３９</sup>。</p>

							]]>
        
    </content>
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    <title>日本とドイツの軍事思想比較　―統帥権独立の影響―　（その１）</title>
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    <published>2009-07-15T07:48:11Z</published>
    <updated>2009-07-15T07:49:17Z</updated>

    <summary> 						　はじめに 						ドイツ統一戦争後のドイツと日清・日露戦争後...</summary>
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        <![CDATA[
						<p>　はじめに</p>
						<p>ドイツ統一戦争後のドイツと日清・日露戦争後の日本には、軍事制度や思想において多くの類似点が見られる。中でも、ドイツと日本の軍事制度は、軍令と軍政が分離されている二元主義にその特色があった。軍令とは軍隊の指揮・運用に関する事項であり、軍政とは軍事力の建設・維持に関する事項である。そして、軍令は、皇帝・天皇の大権として政府・議会の統制を受けなかった。このような制度は、統帥権の独立と呼ばれる<sup>１</sup>。日本における二元主義の軍事制度は、明治維新の初期の時代にプロシャ・ドイツから導入されたものである。統帥権の独立は、昭和期の軍隊が政治に関与するための手段となり、最終的には日米戦争における敗北をもたらしたとされる<sup>２</sup>。また、このような統帥権独立の制度のもたらした弊害については、政軍関係などの視点から広く議論されている<sup>３</sup>。</p>

						<p>一方、第一次世界大戦前のドイツと第二次世界大戦前の日本においては、政治と軍事の地位が対等であるという理解や、政治は軍隊の作戦を容易にするために努力すべきだという作戦至上主義が強調されていた。ドイツ統一戦争における勝利の結果、ドイツ参謀本部の権威は飛躍的に高まり、戦略の策定や戦争の指導に政治家をまったく関与させないことが伝統となった。日本は、明治維新による近代国家建設の時期に、ドイツの軍事制度を取り入れている。日本の近代化努力は、日清・日露戦争における勝利に結びついた。その反面、戦争における勝利によって、ドイツと日本では政治に対する軍事の優位がもたらされる要因となった。</p>
						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
						<p>ドイツの軍事思想家であるクラウゼヴィッツは、先に挙げた軍令と軍政の区分を明らかにした外、政治と軍事のあるべき関係を明確にしている。しかしながら、ドイツ統一戦争で軍事的な勝利をもたらしたモルトケ参謀総長とその後継者は、軍事に対する政治の優位というクラウゼヴィッツの思想を明らかに拒否していた。日本が取り入れたドイツの軍事思想は主としてドイツ第二帝政期のものであり、モルトケとその後継者の反クラウゼヴィッツ的な傾向を強く反映している。そして、統帥権独立の制度は、このような軍事思想の形成と発展に大きな影響を与えているように思われる。</p>
						<p>そこで、本稿においては、統帥権独立の制度下でドイツと日本の軍部が発展させてきた軍事思想を解明し、これが何をもたらしたかを考察することとしたい。</p>
						<p></p>
						<p>I　統帥権独立の経緯と問題点</p>

						<p>１　ドイツにおける統帥権独立の経緯</p>
						<p>　フランス革命によって欧州大陸に植え付けられた立憲思想は、1914年以降の復古主義と反動的な抑圧政策によってほとんど停滞していた。このような中で、1821年、ミュッフリンク中将が初代の「陸軍参謀総長」に任命され、陸軍大臣と同列の地位に置かれたことにより、ドイツにおける二元主義の制度が芽生えた。これは、参謀本部の地位の向上を意味したが、まだ統帥権の独立は達成されていなかった<sup>４</sup>。</p>
						<p>その一方で、立憲思想は、1840年代の革命・動乱によって再び台頭し、憲法の制定が促されて国民は政治的な自由を得るに至った。ドイツにおいても、当時のヨーロッパ大陸で君主国憲法の模範とされていたベルギー憲法を模範に、1850年に憲法が制定された。この憲法は、したがって、軍事における二元主義を否定し、軍令と軍政のいずれも国務大臣の管轄下に置かれる一元主義をとっていた<sup>５</sup>。</p>
						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
						<p>　しかし、1948?49年の革命の動乱が収まると、1859年、国王に直属し、議会の統制を受けない機関として軍事内局（Milit?rkabinett）が創設され、陸軍大臣に属する人事権が軍事内局長に移管された。また、1861年、勅令によって軍令に関しては陸軍大臣の副署を要しないことが定められ、統帥権の独立に道が拓かれた<sup>６</sup>。</p>

						<p>1857年、国王個人業務課長に任命され、その後初代の軍事内局長となったマントイフェル少将は、それまでまったく無名だったモルトケを参謀総長に推薦した。モルトケは、1858年から1888年までの30年間参謀総長の職にあり、その間のドイツ統一戦争に勝利してドイツ参謀本部の名声を高めた。このようなドイツ参謀総長の地位の向上によって、1883年5月20日付けの勅令をもって参謀総長の帷幄上奏権が認められ、ドイツにおける統帥権の独立が確立された<sup>７</sup>。</p>
						<p>　このように、ドイツにおける統帥権の独立は、保守的な皇帝・宮廷と議会との軍隊をめぐる駆け引きの中で導入され、その目的は軍隊に対する議会の干渉を防止することであった。したがって、統帥権の独立は、基本的に政治と軍事の分裂をもたらしかねない制度だったといえる。このような制度の欠陥は、ビスマルクのような有能な政治指導者の存在によってのみ克服が可能だったが、ビスマルクはその後解任されてしまった<sup>８</sup>。</p>
						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
						<p>２　日本における統帥権の独立とその問題点</p>
						<p>　日本における統帥権独立の制度は、1878（明治11）年12月の「参謀本部条例」制定による参謀本部の設置を起点としている<sup>９</sup>。これは、軍令機関である参謀本部の軍政機関である陸軍省からの独立を意味している。この規定では、「政府機関」と「統帥機関」が対等・平等の地位に位置づけられている。しかし、日本における統帥権独立の制度は時代とともに拡大解釈され、強化されていった。そして1930年代になると、軍部内において統帥権の独立とは行政権と統帥権との平等として、機構的には政府・行政組織からの統帥部の独立、すなわち政治一般からの軍事の独立として理解されるようになった<sup>１０</sup>。</p>

						<p>ドイツでは、第一次世界大戦での敗北によって統帥権の独立も廃止された。したがって、第二次世界大戦前の世界では、実質的に日本だけがこの制度を維持していたということができる。このような第二次世界大戦以前の日本の政治と軍事の関係について、サミュエル・ハンチントンは、「日本における文武関係の法的構造は、本質的に軍の独立という構造である」とし、日本の政府が文武という異なる二つの分野で分裂しており、その原理は「二重政府」にあるとしている<sup>１１</sup>。</p>
						<p>さらに、日本の場合、統帥権独立の制度に基づいて、「政略」と「戦略（統帥・作戦）」を対等と位置づける「戦争指導」の概念が生み出された。これは、後述するように、大正から昭和にかけての『統帥綱領』に具体的に記述され、しかもその後の改訂とともに強調の度合いが強められた<sup>１２</sup>。そして、これが、昭和期の軍人の通念・信念として定着したのである。また、昭和7年には、陸軍大学校の学生教育のために『統帥参考書』が発刊されている。『統帥参考書』には、「統帥権の独立」が強調され、「政治機関と統帥機関とはあくまで対等・平等の地位にある」とされている<sup>１３</sup>。このような軍事思想のもとに育った軍人が、国家指導者となって戦争の計画と実行を実際に担うことになったが、「政戦略の一致」の必要性を痛感したものの、それを実現することはまったく不可能だった。</p>
						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
						<p>３　クラウゼヴィッツの軍事思想からの乖離</p>

						<p>　『戦争論』の記述にあたってクラウゼヴィッツが設定した主要な目標は、戦争という複雑な現象を社会的・政治的な幅広い文脈の中に位置付けて、論理的・体系的に分析し、解明することである。そして、クラウゼヴィッツは、「戦争とは他の手段をもってする政策の継続にすぎない」という結論を導き出した。つまり、戦争は、政治という全体の一部であり、いかなる状況においても独立に存在するものではなく、常に政策のための手段とみなされなければならないというのである。</p>
						<p>　クラウゼヴィッツは、最終的な結論に基づいて、政治と戦争の関係における規範を明確にしている。すなわち、「戦争は、政治という指導的な知恵者の支配下に置かれている。戦争は政治的目的から発生するということを考えるならば、戦争の指導に当たって、戦争に生命を呼びおこしたこの最初の動機に、第一の、しかも最高の考慮を置くのは当然」なのである<sup>１４</sup>。さらに、クラウゼヴィッツは、戦争が他の手段による政策の継続である以上、「戦争における重大な事象の判断や計画を純粋に軍事的な判断に任せるべきであるという主張は、許し難い、それ自体危険な考え方である」と述べている<sup>１５</sup>。これ以上明確な政軍関係の規範に関する表明があるであろうか。</p>
						<p>　しかし、後世の人々は、このようなクラウゼヴィッツの考え方に同意しなかった。軍人にとって、ナポレオン戦争とその絶対的戦争の印象はあまりにも鮮明であり、クラウゼヴィッツの本当の主張は誤解されるか、無視されたのである。</p>
						<p>そこで次に、第二帝政期のドイツと明治維新以降の日本の陸軍における軍事思想の形成と発展過程を考察する。</p>
						]]>
        
    </content>
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    <title>『クラウゼヴィッツ「戦争論」を読む』--第５章 戦争を計画する</title>
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    <published>2009-07-15T07:07:09Z</published>
    <updated>2009-07-15T07:09:54Z</updated>

    <summary> 第５章 戦争を計画する：戦略の主要な機能と重要性 						第1編とならんで...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.clausewitz-jp.com/">
        <![CDATA[ <h4>第５章 <b>戦争を計画する：戦略の主要な機能と重要性</b></h4>
						<p align="left">第1編とならんで重要な編</p>

						<p><b>『戦争論』第８編とは</b><b></b></p>
						<p>『戦争論』第８編は第1編の重要な命題がふたたびとりあげられる。また、政治と軍事のあり方を具体的に示しているという点で重要な編である。</p>
						<p>○『戦争論』のまとめの編</p>
						<p>　『戦争論』第８編の見出しは「戦争計画」である。『戦争論』の第３編では、戦略が戦争の計画を立案する場合の準拠になると述べられている。また、戦略の考察にとって、戦争の目的や目標を明らかすることが不可欠であるが、これらの命題は第１編ですでにとりあげられている。</p>
						<p>　第8編では、ふたたびこれらの主要な命題が具体的・総合的に考察される。ここでは、戦争の目的と目標、絶対的戦争と現実の戦争、政治と戦争の関係、敵の重心を打撃することの重要性などの命題が示される。とくに第８編では、戦争の政治的・軍事的指導のあり方が示されているので重要である。</p>
						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>

						<p>○戦争の構成</p>
						<p>　まずは、戦争計画について見る前に、戦争の全体の構成について見てみよう。戦争では、一つの戦闘を最小の単位とし、いくつかの戦闘が組み合されて一つの作戦が構成される。さらに、いくつかの作戦を含むある一定期間の戦役（一つ又は複数）によって、戦争全体が構成される。</p>
						<p>　具体的な例をあげると、第二次世界大戦の日本の戦争計画においては、オランダ領インドシナ（現在のインドネシア）の石油資源地帯を領有するために、太平洋にある米英の根拠地を攻撃・無力化（前段）し、反撃から守りとおすこと（後段）を目標に戦争全体が構成されていた。まず、真珠湾を攻撃して米太平洋艦隊の主力を撃破する作戦が実行された。次に、米英の植民地であるフィリピンと香港の攻略作戦、シンガポール攻略のためのマレー半島上陸作戦が同時に実行され、シンガポールを占領した後に、ジャワ島などのオランダ領インドシナが占領された。これらの前段の作戦は、多数の戦闘を含み、全体として約半年間の戦役を構成しているのである。</p>
						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
						<p>戦争の設計図</p>
						<p><b>戦争計画とは何か</b><b></b></p>

						<p>戦争計画によってあらゆる軍事行動は総合され、一つの最終目的をもつ作戦にまとめられる。</p>
						<p></p>
						<p>○戦争計画は戦争の設計図</p>
						<p>　前項では、戦争は作戦や戦闘という多数の軍事行動によって構成されていることを述べた。そして、これら多数の軍事行動が総合され、一つの最終目的を持つ戦争にまとめられているものが戦争計画であるとクラウゼヴィッツは述べている。戦争計画によって、個別の戦闘や作戦の目標は立案・調整されるのである。いいかえれば、戦争計画とは戦争の設計図であり、あらゆるレベルの戦争の構成要素（戦闘や作戦など）を戦争の目的と結び付ける役割を果たしている。</p>
						<p>　前項にあげた第二次世界大戦時の日本の戦争計画では、日本独自の石油資源を手に入れることが戦争の目的であった。そして、太平洋の米英の軍事力を撃破してオランダ領インドシナを占領することが初期の各作戦（南方作戦／戦役）の目標であった。これらの作戦、すなわち戦争計画は予想以上にうまく運んだが、さらに手を広げてミッドウェー島の攻略作戦で手痛い反撃を受けたのである。</p>
						<p>○戦争の目的と目標</p>

						<p>　戦争を計画する場合、戦争の目的と目標を十分に検討することは非常に重要である。クラウゼヴィッツは戦争の目的と目標を明確にしないまま戦争を開始すべきではないと警告している。なぜなら、戦争の目的と目標が戦争を行う場合の基本的な構想であり、それによってすべての方針が律せられるからである。また、クラウゼヴィッツは、戦争の目的と目標によって戦争に必要な資源や戦力の大きさが決定され、戦闘や作戦などの細部の行動が定められると述べている。</p>
						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
						<p>「絶対的戦争」と「現実の戦争」</p>
						<p><b>二種類の戦争と理論への適用</b><b></b></p>
						<p>ナポレオンの戦争の変革は「絶対的戦争」の概念を生み出すきっかけとなった。この概念は戦争の性質や規模を判断するための指標となる。</p>
						<p>○「絶対的戦争」の概念が生まれたきっかけ</p>

						<p>　この項では、第８編でふたたびとりあげられている「絶対的戦争」と「現実の戦争」の二種類の戦争という重要な命題について見てみよう。</p>
						<p>　ナポレオンの登場によって、戦争は劇的に変化した。クラウゼヴィッツは、「ナポレオンのもとでは、戦争は敵が撃滅されるまで間断なく推し進められ、また、敵の反撃も同様の激しさで行われた」と述べている。彼は、以前にはなかった大規模な軍隊でもって、敵を殲滅するまで戦争を遂行したのである。このナポレオンによる戦争の変革は、「絶対的戦争」の概念を生み出すきっかけになった。その一方で、クラウゼヴィッツは、ナポレオン以前の戦争のほとんどが小競りあいの「現実の戦争」に終始していたことを認めている。</p>
						<p>○二種類の戦争を戦争理論に適用</p>
						<p>　クラウゼヴィッツはナポレオンによる戦争の変革に大きな衝撃を受けていたので、『戦争論』の執筆にあたって、最初は「絶対的戦争」を重視していた。しかし、執筆してゆくうちに「現実の戦争」の存在に気が付き、平等に扱うことにした。そして、クラウゼヴィッツは戦争理論において、「絶対的戦争」は戦争本来が持っている原理を抽出した純粋な概念として規定し、それに対する「現実の戦争」では、戦場でおこる偶発的事象、勇気や臆病さなどの人間の精神性、判断のあいまいさなどを正当に認めたのである。</p>
						<p>　わかりやすく二種類の戦争を上下であらわすと、クラウゼヴィッツは「絶対的戦争」を戦争本来の姿として最上部に位置付け、「現実の戦争」である制限戦争※のすべてはそれ以下のどこかに位置付けられるとした。「絶対的戦争」の概念は、現実におこるあらゆる戦争の性質や規模を判断し、これに正しく対応するための指標として使用されるのである。</p>
						<p>※制限戦争とは、敵の領土の一部占領など限定された目的・目標のために戦う戦争のことである。</p>

						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
						<p>異なる激しさと規模</p>
						<p><b>二種類の戦争の相違を把握する</b><b></b></p>
						<p>絶対的戦争と現実の戦争では、激しさや規模が異なる。このため、戦争を計画する場合には、戦争の性質や規模を知る必要がある。</p>
						<p>○二種類の戦争における勝利の違い</p>
						<p>　「絶対的戦争」は、相手の完全な打倒をめざす極限的な戦争を意味している。この場合、クラウゼヴィッツは最終的な決着だけが重要であり、途中の状態がいかに悪くても最後に勝利がえられればよいという。絶対的戦争では、個別の戦闘は最終的に相手を打倒できた場合にだけ価値がある。</p>

						<p>　一方、「現実の戦争」では、ゲームでの対戦のようになるべく多くの「得点」をあげれば勝利したことになる。たとえば、いくつかの重要な戦闘で敵に勝利し、敵の領土の一部をなるべく少ない損害で獲得し、敵が奪回することをあきらめれば、戦争に勝利して終結する。歴史上、多くの戦争はみずからの生存をかけてではなく、このような「得点」を求めて戦われている。</p>
						<p>○戦争の性質を把握することが重要</p>
						<p>　クラウゼヴィッツは、上にあげたような戦争の性質の違いから、戦争を計画する場合には、いかなる戦争であってもまず戦争の性質と規模を把握することが必要になると述べている。つまり、戦争がどのような性質、すなわち激しさを持っており、どの程度の規模になるかをしっかりと事前に把握しておくことが重要なのである。とくに絶対的戦争の場合は、中途半端な決着ではなく国家の存亡がかけられている。したがって、十分な決意と準備がなければ、戦争に敗北し、滅亡することは明らかである。</p>
						<p>　プロイセンとオーストリアがナポレオンに敵対したとき、戦争が絶対的な性格のものに変化していることは理解されていなかった。そして、プロイセンとオーストリアは、戦争の神※ナポレオンに対して従来の制限戦争のイメージで戦争を挑み、大敗を喫したのである。</p>
						<p>※クラウゼヴィッツは、圧倒的な強さを誇るナポレオンをこのように評した</p>
						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>

						<p>敵の弱点を突く</p>
						<p><b>重心を攻撃する</b><b></b></p>
						<p>重心とは敵の力の中心であり、弱点でもある。この重心を攻撃することによって敵の撃破、すなわち戦争の目標が達成される。</p>
						<p>○重心は敵の弱点</p>
						<p>　この項では、『戦争論』第八編ではじめて登場する「重心」の概念について見てみよう。</p>
						<p>　重心の概念は、第８編第４章「戦争の目標に関するさらに厳密な定義――敵の撃破」の中でとりあげられている。重心とは、敵の力の中心であるとクラウゼヴィッツは述べている。いいかえれば、敵の弱点である。クラウゼヴィッツは、あらゆる力をもって重心を攻撃することによって戦争の目標、すなわち敵を撃破することができると述べている。</p>

						<p>　1991年の湾岸戦争で、多国籍軍はイラク本土にまで侵攻しイラク軍は崩壊寸前だったが、クウェートを解放しただけでフセイン政権の打倒もイラク軍の撃滅も達成されず不十分な結果に終わった。多国籍軍はイラク軍を重心と判断したが、本当の重心はフセイン大統領個人だったという議論がある。</p>
						<p>○重心の具体例</p>
						<p>　クラウゼヴィッツは、それぞれの場合に重心は異なるとして、次のような例をあげている。?アレクサンダー大王、グスタフ・アドルフ、カール12世やフリードリヒ大王※の場合、重心はその軍隊にあった。?国内政治が不安定な国家の場合は、通常その重心は首都にある。?大国との同盟に頼る小国の場合は、重心は大国の方の軍隊にある。力関係が同等の同盟関係においては、重心は利害の一致する点にある。?国民の武装蜂起においては、重心はその指導者個人と世論にある。</p>
						<p>　クラウゼヴィッツによると、攻撃はこれらの重心に対して指向されなければならないという。第一次世界大戦で、ロシアは常にドイツとオーストリアの両方を攻撃していたが、より強いドイツに戦力を集中すべきであった。</p>
						<p>※この４人の国王はいずれも軍人として数々の戦争で輝かしい勝利をあげた。</p>
						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>

						<p>政治と戦争の関係?</p>
						<p><b>戦争は政治の道具</b><b></b></p>
						<p>クラウゼヴィッツは、どのような戦争であっても戦争は政治的交渉の一手段であり、政治に従属していることを明確に示している。</p>
						<p>○戦争は政治的交渉の一部</p>
						<p>　ここで、『戦争論』第8編が「戦争計画」であることを思い出しておこう。戦争を計画するためには、政治と戦争の関係、政治が戦争に及ぼす影響などが明らかにされなければならない。したがって、『戦争論』の中心的な命題である政治と戦争の関係が、ここでは戦争を計画するという立場からもう一度考察されているのである。</p>
						<p>　絶対的戦争と現実の戦争は、これまで見たように弁証法的な対立関係にある。しかし、弁証法の論理では、それぞれは同じ事象の違った側面をあらわしているにすぎない。クラウゼヴィッツは絶対的戦争と現実の戦争に共通する本質は、いずれの戦争も政治的交渉の一部にすぎず、政治から独立した存在ではないことだと述べている。このことから、彼は、戦争の計画においてもっとも重要な指針は政治によって示されるべきだと主張した。</p>

						<p>○政治が戦争をコントロールする</p>
						<p>　しかし、一般には戦争によって政治的交渉が中断され、戦争（軍事）が政治よりも優先される※と考えられている。クラウゼヴィッツは、この考えは誤りであり、「戦争は他の手段を交えた政治的交渉」であると述べている。戦争は外交交渉の代わりに「他の手段」、つまり武力が行使されているのであり、それは政治的交渉の一つの手段にすぎないのである。実際にも、宣戦布告によって対立する国民や政府間の政治的関係が完全に断絶するわけではないので、政治的交渉は戦争の間も続いている。したがって、クラウゼヴィッツが「戦争は政治の道具である」と見なしているように、政治は、開戦から講和にいたるまで一貫して戦争をコントロールすべきなのである。</p>
						<p>※このような考え方は、クラウゼヴィッツ以前から現代に至るまで残っている。</p>
						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
						<p>政治と戦争の関係?</p>
						<p><b>政治と戦争計画の関係</b><b></b></p>

						<p>戦争を計画する場合や戦争時の重大な判断は、政治によって決定されなければならない。</p>
						<p>○戦争を判断する主体</p>
						<p>　『戦争論』の第8編には、政治と戦争の関係についていくつも重要な指摘が登場する。しかし、これらの指摘にも関わらず、歴史上何度も過ちが繰り返されてきた。この項では、引き続き政治と戦争の関係について見ていこう。</p>
						<p>　クラウゼヴィッツは、戦争計画や戦争時の重大事項は軍人が判断するという考え方は非常に危険であると主張している。しかし、第一次世界大戦時のドイツにおいては、政治家の判断によってではなく、軍人の作成した戦争計画によって戦争が開始され、その後軍人の要求するままに人的・物的な資源が投入されて戦争の規模が拡大されてしまった。軍人が戦争での勝利をあきらめたあと、ようやく政治家が表舞台に出てきたのである。</p>
						<p>○あるべき政軍関係の姿</p>
						<p>　第一次世界大戦は、歴史上はじめての国家総力戦であった。戦争の計画と実行には、軍事ばかりでなく、外交、経済、財政、金融、産業、科学技術などの国家のすべての機能が必要になり、これらを総合・調整するのは政治以外にはない。クラウゼヴィッツがいうように、戦争の推移を正しく判断し、その後の方針を決定することが政治のなすべきことであり、政治だけがそれをなし得るのである。しかし、このような彼の警告は、現在では当然のように思われても、当時としてはあまりに予言者的で理解が得られなかった。</p>

						<p>　一方、政治が戦争に達成不可能なことを要求することがある。この場合だけは、政治の決定が戦争に有害な影響を及ぼすことがあるとクラウゼヴィッツは述べている。ベトナム戦争では、政治が軍事に対して過度の干渉をしたことが米国の敗北の要因とされている。政治が作戦の細部まで干渉し、軍人の判断を拘束したり、軍事的に不合理なことが要求されたからである。</p>
						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
						<p>クラウゼヴィッツの提言</p>
						<p><b>政治が戦争を主導する方法</b><b></b></p>
						<p>クラウゼヴィッツは政治が戦争を主導する方法について具体的に提言している。しかし、この提言は『戦争論』第二版以降で改ざんされている。</p>
						<p>○内閣が戦争を主導する</p>

						<p>　前項では、戦争における政治と軍事のあるべき関係について見てきた。クラウゼヴィッツは、その政治と軍事のバランスを保つためにはどうすればよいかということについて提言を行っている。彼は、戦争を政治の意図する方向と完全に一致させるために、軍人である最高司令官を内閣の一員に加えて、内閣が最高司令官のもっとも重要な決定に参加できるようにすることを提案している。つまり、最高司令官が内閣の一員であれば、常に戦争を政治的目的に合致させて導いていくことができる。また、内閣が戦争に関する重要な決定に参加できれば、政治を戦争に反映しやすくなるのである。</p>
						<p>　クラウゼヴィッツは、このような提言をすることで、戦争が政治の一部として機能すべきことを強調している。</p>
						<p>○提言の改ざん</p>
						<p>　しかし、このようなクラウゼヴィッツの意図にも関わらず、『戦争論』の第2版以降には多数の改ざんが見られる。そのもっとも重大なものは、前述の提言が「最高司令官を内閣の一員に加え、もっとも重大な時期には最高司令官を内閣の審議と決定に参加させることが必要である」と書きかえられていることである。これは、クラウゼヴィッツの書いている意味とはまったく反対である。彼の主張は、最高司令官を内閣の一員に加えることによって政府が軍人の決定を左右することができるということであって、軍人を政治的な決定に参加させるべきであるということではない。</p>
						<p>　第2版の編集にたずさわったのは、マリー婦人の弟のフォン・ブリュール伯爵である。彼は軍人であり、初版の出版のときにも手伝っている。改ざんが彼個人よるものなのか、参謀本部の影響によるものなのかは不明である。</p>
						<p align="right">完</p>
]]>
        
    </content>
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<entry>
    <title>『クラウゼヴィッツ「戦争論」を読む』--第４章　攻撃と防御</title>
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    <published>2009-07-15T07:04:49Z</published>
    <updated>2009-07-15T07:09:33Z</updated>

    <summary> 第４章　攻撃と防御 						　戦争における軍事行動に攻撃と防御があることは...</summary>
    <author>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.clausewitz-jp.com/">
        <![CDATA[ <h4>第４章　<b>攻撃と防御</b></h4>
						<p>　戦争における軍事行動に攻撃と防御があることは、ある意味では常識であろう。その一方で、攻撃と防御の本質的な違いはどこにあるのであろうか。</p>

						<p>　ここでは、防御から攻撃という『戦争論』の記述順序で、それぞれの概念や本質的な違いを見てみよう。</p>
						<p>○&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; 防御とは何か<br>
							○&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; 戦史にみる防御の強さ<br>
							○&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; 新しい抵抗方式<br>

							○&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; 攻撃と防御の相互関係<br>
							○&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; 攻撃はどのように使用されるのか<br>
							○&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; 攻撃（勝利）の限界点</p>
						<p>『戦争論』の第6編と第7編</p>

						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
						<p><b>防御と攻撃の関係</b><b></b></p>
						<p>クラウゼヴィッツは弁証法的な分析を通じて防御と攻撃を分析した。防御と攻撃は対極的な性質を持ちながら相互に依存している。</p>
						<p>○弁証法的な攻撃と防御の分析</p>
						<p>　戦争には攻撃と防御という二つの代表的な「戦術行動」がある。クラウゼヴィッツは『戦争論』第6編に「防御」、第7編に「攻撃」と題してそれぞれとりあげている。</p>
						<p>　この防御と攻撃の考察にも弁証法的な分析方法が適用されている。クラウゼヴィッツは「防御は受動的だが強い戦闘方式」と見なし、「攻撃は能動的だが弱い戦闘方式」と見なした（この理由は後述する）。また、防御と攻撃は対極する性質を有する一方で、防御と攻撃は相互に依存しているという。つまり、防御の中にも攻撃（攻撃的要素）があり、攻撃の中にも防御（防御的要素）があり、それぞれ流動的な関係で結ばれてお互いに依存しているのである。この防御と攻撃の依存した関係に関しては、それぞれ項目を追いながら具体的に説明していこう。</p>

						<p>○戦略レベルの防御と攻撃</p>
						<p>　防御と攻撃はもともと個々の戦闘や小規模な作戦に見られる戦術的な行動だが、戦争を全体として見た戦略レベルでも防御や攻撃といった軍事行動がある。現在では防御的な軍事行動は防勢作戦や防衛戦争とよばれ、攻撃的な軍事行動は攻勢作戦や攻勢戦争とよばれている。</p>
						<p>　しかし、クラウゼヴィッツがいた当時のドイツ語にはこのような戦略レベルの防御や攻撃をあらわす"便利な"言葉はなく、『戦争論』では戦略レベルでも「防御」または「攻撃」という用語が使用されている。この第四章でも原典の『戦争論』に準じて戦略レベルでも「防御」または「攻撃」の用語を使用するが、それぞれ補足しながら書き進めていくことにする。</p>
						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
						<p>防御とは何か?</p>
						<p><b>防御と攻撃的要素</b><b></b></p>

						<p>防御は基本的に敵の攻撃を待ち受けるという受動的な行動であるが、反撃や逆襲など攻撃的要素も含んでいる。</p>
						<p>○防御とは何か</p>
						<p>　クラウゼヴィッツは防御とは「敵の攻撃を阻止する」ことだと述べている。そして、この防御の特色は「攻撃を待ち受ける」ことだという。また、この特色によってのみ、防御という行動が特徴付けられるとしている。つまり、防御とは相手が攻撃してくることを前提として攻撃を待ち受け、阻止する行動なのである。また、クラウゼヴィッツはどのような規模のものであっても敵の攻撃を待ち受けて行う行動はすべて防御に含まれるとしている。</p>
						<p>　しかし、クラウゼヴィッツは「絶対的な防御は戦争の概念と完全に矛盾する」と述べている。絶対的な防御、すなわち、ただ単に守るばかりでまったく攻撃的な要素がないことは、戦力を消耗するだけで無意味な行動といわざるをえないからである。</p>
						<p>○防御の中の攻撃的要素</p>
						<p>　クラウゼヴィッツは相手の攻撃を待ち受けるという受動的な防御の特色によってのみ、戦争において攻撃と防御を区別することができると述べている。いいかえれば、防御と攻撃を区別するものは相手の攻撃を待ち受ける行動か、みずから積極的に仕掛ける行動かだけの違いになるのである。</p>

						<p>　ところが、このような防御の基本的概念は、防御という全体の概念のみに該当し、防御という行動のすべてに当てはまるわけではないと彼は述べている。なぜなら「防御的な戦役において攻撃的な打撃を加え、あるいは防御的な会戦において個々の師団を攻撃的に運用し、さらには敵の突撃に対して軽易な陣地から攻撃的な射撃を浴びせること」があるからである。つまり、いかなる防御でも国土に侵入した敵の撃退、戦力の低下した敵に対する反撃、あるいは陣地を奪回するための逆襲など攻撃的要素を含んでいるのである。</p>
						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
						<p>防御とは何か?</p>
						<p><b>防御が攻撃よりも強い理由</b><b></b></p>
						<p>クラウゼヴィッツは、防御は攻撃より強力な戦闘方式であると見なし、その2つの利点をあげている。</p>
						<p>○防御の利点</p>

						<p>　前項では防御の概念と防御の持つ攻撃的要素を見てきた。この項では防御の利点について見てみよう。クラウゼヴィッツは防御の利点は「保持すること」であり、保持することは獲得することよりも容易であると述べている。同じ戦力と資源を持っていることを前提とすれば、攻撃側が無駄にすごす時間はすべて防御側に有利に作用する。なぜなら、攻撃側における誤った判断、恐怖心、怠慢などによる攻撃の中断はすべて防御側を利するからである。</p>
						<p>　また、防御のもう一つの利点は地形を利用することであるとクラウゼヴィッツは述べている。防御ではみずから有利な地形を選択し、攻撃を待ち受けることができる。また、敵が前進して攻撃を準備する間の時間的な余裕を利用して、陣地や障害物をつくることによって地形を強化することも可能であるとしている。</p>
						<p>　防御が持つこれら二つの利点は非常に大きいものである。しかし、一般的には防御は軽視され、攻撃こそが戦略・戦術の基本であると考えられてきた。ところが、第一次世界大戦の西部戦線※では両軍が塹壕を築いて防御を行い、両軍が何度か総攻撃を行ったがそのたびに大きな損害を出して撃退された。</p>
						<p>○防御の選択</p>
						<p>　クラウゼヴィッツは防御は相手を弱体化させるために一時的に選択される行動であるとしている。そして、防御が成功して相手の戦力を大幅に低下させることができたならば、その有利な状態を利用して最終的には反撃や逆襲など攻撃に移行しなければならないのである。また、防御は味方の戦力が劣勢な場合だけでなく相手と同等か優勢な場合でも、防御の利点や効果を期待して選択されることがありうる。</p>
						<p>※第一次世界大戦の西部戦線ではドイツ軍と英仏軍の両軍が塹壕を築いて防御を行い、両軍が攻撃を繰り返したが成功せず、両軍に膨大な損害がもたらされ、このような防御の強さが人々に衝撃を与えた。</p>

						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
						<p>戦史に見る強力な防御</p>
						<p><b>強力な防御法</b><b></b></p>
						<p>国土の内部へ自発的に後退して行う防御法は防御の利点を最大限に発揮するため非常に強力である。</p>
						<p>○強力な防御法</p>
						<p>　この項ではクラウゼヴィッツがあげる具体的な防御法を見てみよう。</p>

						<p>　クラウゼヴィッツは攻撃のために前進する場合、その戦力は前進そのものによって必ず弱体化されると述べている。なぜなら、敵との戦闘による兵士の死傷や、食糧や装備の輸送を防護するために兵を割くことなどによって、前方で戦闘する兵士の数は攻撃の進展とともに減少するからである。逆にいえば、敵を前進させて戦力を消耗させれば防御側にとって有利な状況になる。このため、クラウゼヴィッツは国土の内部へ自発的に後退する防御法は非常に強力であると見なした。その一例がナポレオンのモスクワ遠征である。</p>
						<p>　1812年5月、ナポレオンは60万人の大軍をもってロシアの首都モスクワへ向けて進撃を開始した。戦力で大きく劣るロシア軍は、退路を焼き払いながらモスクワへ自発的に後退した。9月14日、ナポレオンはモスクワに入城したが、ロシア軍はモスクワに火を放ってさらに国土の奥深くに後退し、講和に応じなかった。10月19日、冬の到来とともにナポレオンが後退を開始すると、ロシア軍は後方や側方から攻撃し、フランス軍を潰滅させた。</p>
						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
						<p>○最後の手段としての防御</p>
						<p>　このような防御法は国土の荒廃と後退にともなう国民の士気の低下をもたらすが、劣勢な防御側が取りえる最後の手段として有効であるという。</p>
						<p>　ナポレオン軍とロシア軍の戦力の格差は当初約２倍であった。ところが、ナポレオン軍の戦力はヴィテプスクで25万人（７月25日）、スモレンスクで18万2000人（８月16?18日）であり、ボロジノではついに12万人（９月７日）に減少した。ここには、戦闘による死傷だけでなく、攻撃のための前進そのものによって大きく戦力が減少する※ことがよく現れている。</p>

						<p>※戦争において非常に多く見られる現象であり、後方連絡線（補給路）が延びて前方の戦力が急激に減少する。朝鮮戦争初期の北朝鮮軍の釜山をめざす攻撃や最近のイラク戦争においても見られた。</p>
						<p>新しい抵抗方式</p>
						<p><b>国民の武装と抵抗：ゲリラ戦</b><b></b></p>
						<p>クラウゼヴィッツはみずからのゲリラ戦の経験を踏まえてゲリラ戦に言及し、ゲリラ戦の原則や有効性について述べている。</p>
						<p>○ゲリラ戦を経験したクラウゼヴィッツ</p>
						<p>　クラウゼヴィッツは『戦争論』第6篇「防御」の中で、防御と同じように基本的に劣勢な側が取りうる手段であるゲリラ戦について述べている。ちなみにゲリラという言葉は、スペインの農民たちがナポレオンの侵攻に抵抗した戦いを「ゲリリャ（小さい戦争）」とよんだことに由来している。</p>

						<p>　クラウゼヴィッツは初陣のライン戦役（1793年）でゲリラ戦を経験し、ロシア軍に移ってからは、農民がナポレオン軍の後方や側面を攻撃するパルチザン戦争※を目撃した。また、その後の開放戦争（1813年）では、プロシアの義勇軍によるゲリラ戦をもってナポレオンと戦った。</p>
						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
						<p>○ゲリラ戦の原則</p>
						<p>　このような経験を踏まえて書かれた『戦争論』第6編第26章の「国民の武装」は、ゲリラ戦を分析したはじめての記述といえる。中国共産党の毛沢東が対日戦争とその後の国共内戦で全面的に活用したゲリラ戦の戦略は『戦争論』のこの章の記述に大きな影響を受けている。</p>
						<p>　クラウゼヴィッツはゲリラ戦の原則として、義勇軍や武装した民衆のゲリラ部隊は「敵の主力や大きな軍団に対して決して使用してはならない。その使用の目的は敵の中核を粉砕するのではなく、表面や周辺を侵食することにあり、戦場の側方で敵が戦力をもって侵攻しない地域において活動し、この地域を敵の勢力圏外に置くことにある」と述べている。</p>
						<p>　つまり、民衆が武装したゲリラの攻撃目標は敵の強力な主力軍ではなく、警戒の手薄な小部隊や後方の補給施設などである。このため、敵はゲリラ活動に対して防護のために多数の部隊を派遣する以外になく、それによって敵の主力軍の攻撃は弱められるのである。</p>

						<p>※パルチザン戦争：ロシアの農民や労働者がおこなったゲリラ戦による戦争</p>
						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
						<p>攻撃はどのように使用されるのか</p>
						<p><b>攻撃の目標と役割</b><b></b></p>
						<p>これまで、攻撃と防御のそれぞれの特性、相違や相互関係を見てきた。それでは、攻撃は、戦争においてどのような役割を果たすのであろうか。</p>
						<p>○攻撃の目標</p>

						<p>　前項までは主に防御について見てきた。この項から『戦争論』第七編「攻撃」の内容を中心に、クラウゼヴィッツが分析する攻撃について見ていこう。</p>
						<p>　クラウゼヴィッツは戦争の目標※は、敵の戦闘力の撃破という手段による、敵の打倒であると述べている。また、このことは防御と攻撃の両方にあてはまるという。防御は敵の戦力を弱体化した後に反撃や逆襲といった攻撃に移行して、敵の打倒、すなわち敵を自国の領土から追い出す。一方、攻撃において敵の打倒とは、敵国へ攻め込んで敵の国土を占領することを意味する。</p>
						<p>　ただし、敵の国土を完全に占領する必要はなく、持っている戦力に応じて敵国の領土の一地方や、一つの都市、一つの要塞などの占領に限定することも可能であるとクラウゼヴィッツは述べている。なぜなら、これら占領した敵国の領土の一部は、確保するか交換するかを問わず、講和に際して政治的な条件として十分な価値を有していればよいのである。</p>
						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
						<p>○現実の戦争における攻撃の目標</p>
						<p>　上記のことを、クラウゼヴィッツは、「したがって、戦略的な攻撃の目標として、国土の完全な占領から取るに足らない地域の占領に至るまでのさまざまな段階のものを考えることができる」と述べている。すなわち、現実の戦争では、保有する戦力に応じてさまざまな攻撃の目標があり得るのである。</p>

						<p>　このような場合、クラウゼヴィッツがいうように「将軍が占領すべき目標を正確に定めていることは稀である。そうではなくて、将軍は、これ（どの程度の目標とすべきか）を状況の推移にまかせる」。つまり、成り行きに応じて可能な範囲でなるべく大きな成果が追求されるのである。しかし、それによって攻撃の限界点（後述）を踏み越えるという新たな問題点が生ずる。</p>
						<p>※有利な条件での講和の締結である戦争の目的（政治的目的）とは異なることに注意。</p>
						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
						<p>攻撃の中の防御的要素</p>
						<p><b>攻撃が内包する</b><b>2</b><b>つの防御</b><b></b></p>

						<p>戦略レベルの攻撃には防御的要素が含まれる。攻撃においても休止する時間が必要であり、また補給路を防護する必要があるからである。</p>
						<p>○戦略レベルの攻撃には防御が必要</p>
						<p>　防御には攻撃的要素があることはすでに見てきた。クラウゼヴィッツはそもそも攻撃がそれ自体が完結した行動であるため、攻撃という概念の中には防御的要素は含んでいないとしている。しかし、戦略レベルにおけるような長期間にわたって継続される攻撃には防御的要素が含まれるという。彼は次のような二つ理由をあげている。</p>
						<p>　第1に長期間にわたる攻撃には休止する時間が必要であり、攻撃軍はこの休止の間は無力になるので、みずから防御の状態を取らざるをえない。たとえば一回の攻撃が終わると、弾薬や食糧の補給、装備の整備、これまで攻撃してきた部隊と交代するための新しい戦力の投入といったことをしなければならないのである。第2に、攻撃軍の後方連絡線（補給路）の防御である。攻撃軍が攻撃を維持するための生命線ともいえる部分なので、とくに注意して後方連絡線は防御しなければならないのである。</p>
						<p>○攻撃に含まれる防御は攻撃を弱体化させる</p>
						<p>　ところが、このような攻撃に含まれる防御的要素は攻撃そのものを弱体化させるとクラウゼヴィッツは述べている。たとえば、攻撃軍が敵地の奥深くにまで達すると一般的に攻撃側の戦力は低下するため、ますます多くの休止が必要となる。また、後方連絡線（補給のための輸送路）が延びてその防護に必要な戦力はますます増大することになる。これらの防御の結果、攻撃軍は停滞と戦力の低下を招くことになるのである。</p>

						<p>　また、クラウゼヴィッツは「このような防御に移行せざるをえないことは、攻撃におけるもっとも脆弱な要素」と指摘している。攻撃側に防御的要素が出現した瞬間は防御側による反撃の絶好の機会となるからである。</p>
						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
						<p>勝利の限界点?</p>
						<p><b>戦闘力の減衰と攻撃の限界点</b><b></b></p>
						<p>攻撃側の戦闘力はたび重なる戦闘や補給の困難により必ず減衰していき、やがて「攻撃の限界点」に達する。</p>
						<p>○戦闘力の減衰</p>

						<p>　この項と次項では、攻撃における攻撃側の戦闘力は減衰するものだとする「攻撃（勝利）の限界点」について見ていこう。クラウゼヴィッツは戦闘力は次第に減衰していくと述べている。まず、最初の戦闘で攻撃側の戦闘力は減衰する。しかし、敵の領土を占領しようとする攻撃側の目的は最初の戦闘だけで放棄されることはなく、攻撃側は戦闘力の減衰に耐えて前進することになるであろう。</p>
						<p>　ところが、攻撃側は後方連絡線（補給路）を確保するために後方の地域を防護しなければならず、このために割かれる戦闘力は無視できない。また、攻撃側が前進すれば前進するほど後方連絡線が延び、補給を確保するための活動はますます困難になる。このことに防御側との戦闘による損耗が加わるため、攻撃側の戦闘力はさらに減衰していくのである。</p>
						<p>○攻撃の限界点</p>
						<p>　クラウゼヴィッツはこのような戦闘力の減衰に比例して攻撃側の優勢も低下し、やがて「攻撃の限界点」に達すると述べている。</p>
						<p>　攻撃側の優勢が日ごとに低下するにもかかわらず、講和まで優勢が維持されれば目的の達成、つまり攻撃側に有利な講和条件で戦争を終結させることができる。しかし、攻撃側の戦闘力が低下し、なんとか持ちこたえているだけの状態にまでになることもある。このような状態にまで至ると、防御側の反撃による優勢・劣勢の「逆転」が起こるのである。クラウゼヴィッツはこのような優勢・劣勢の変換点を「攻撃の限界点」とよんでいる。</p>
						<p>　攻撃における戦闘力の減衰や攻撃の限界点の見極めは現実の戦争では非常に重要であるが、歴史上しばしば無視され、多くの過ちが繰り返された。</p>

						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p>
						<p>４?１０　勝利の限界点?</p>
						<p><b>勝利の限界点を見極めることの重要性</b><b></b></p>
						<p>攻撃の限界点は、戦争全体から見れば勝利の限界点でもある。勝利の限界点を見極めることは非常に重要であり、戦争の理論の主要な命題である。</p>
						<p>○勝利の限界点とは何か</p>
						<p>　クラウゼヴィッツは攻撃の限界点に続いて、「勝利の限界点※」という章を設けている。この章の冒頭で、あらゆる戦争において勝利者は敵を完全に撃滅できるわけでなく、多くの場合に勝利の限界点が出現すると述べている。</p>

						<p>　なるべく大きな成果が追求される場合、人間の欲望はともすれば限界を踏み越えてしまいがちである。とくに当初の攻撃がうまくいった場合などは、その攻撃を継続してもっと大きな成果を追及した結果、十分な対応の準備がないままに敵の大規模な反撃に遭遇することになる。太平洋戦争において、日本軍は真珠湾攻撃の成果に乗じてミッドウエー島の攻略を計画し、米軍の反撃を受けたことはその一例である。<b></b></p>
						<p>○勝利の限界点を見極めることはなぜ重要か</p>
						<p>　また、クラウゼヴィッツは勝利の限界点は攻勢から防勢への転換点でもあり、すべての戦役計画の目標となると述べている。保有する戦力を考慮して達成可能な目標で攻勢を停止し、それ以降は防勢に転換して有利な態勢で敵の反撃を待ち受けてはじめて、現実の戦争の目標を達成することができるのである。また、彼は達成可能な目標以上のものを追求することは、何の成果ももたらさないばかりでなく、敵の反撃を招く危険性があると述べている。上にあげた太平洋戦争の例のように、攻撃によってせっかく獲得したものが全部失われるだけでなく、みずからも撃破される結果となるのである。したがって、勝利の限界点を見極める判断は非常に重要である。</p>
						<p>　しかし、クラウゼヴィッツも述べているように、この判断にはさまざまに入り組んだ数千の選択肢があり、しかも戦争の結果に対する重大な責任がある。これらは指揮官の判断を誤らせることになる。</p>
						<p>※攻撃の限界点と同意義。戦争全体を通して見れば、勝利の限界点の方が適切であるため。</p>
						]]>
        
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    <title>『クラウゼヴィッツ「戦争論」を読む』--第３章　戦略とはどのようなものか</title>
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    <published>2009-07-15T07:03:06Z</published>
    <updated>2009-07-15T07:44:27Z</updated>

    <summary> 第３章　戦略とはどのようなものか 						　現在、「戦略」という言葉は、軍...</summary>
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        <![CDATA[<p> <h4>第３章　戦略とはどのようなものか</h4><br />
						<p>　現在、「戦略」という言葉は、軍事以外のたとえば経営などの分野でもしばしば登場する。しかし、「戦略とは何か」という疑問には、なかなか適切な解答は見出せない。ここでは、クラウゼヴィッツの戦略論から「戦略とは何か」を考えてみよう。</p><br />
						<p>○ 戦略とは何か<br></p>

<p>							○ 戦略の構成要素<br><br />
							○ 勝利のための戦略的要素</p><br />
						<p></p><br />
						<p>『戦争論』の第3編</p><br />
						<p><strong>戦略とは何か</strong></p><br />
						<p>クラウゼヴィッツの戦略論の特徴は精神的要素を重要視したことである。戦略とは政治も含んだ幅広いものであり、あらゆる段階の指針となる。</p></p>

<p>						<p>○クラウゼヴィッツの戦略論の特色<br><br />
							　この第三章では、『戦争論』の第３編「戦略一般」をとりあげる。戦略については序章でも少し触れ、また第２章でも戦略と戦術の区分やそれぞれの定義が明らかにされている。<br><br />
							　『戦争論』の記述体系からすれば、戦略論は、戦争の本質論や戦術論とならぶ重要な位置付けにある。したがって、とくに第３編で戦略を一般的に取り上げ、さらに第８編「戦争計画」でふたたび戦略論を展開している。<br><br />
							　クラウゼヴィッツの戦略論は政治と軍事の関係までを含めた幅広いものであり、とくに精神的な力を戦略論の中心においたことに特色がある。彼はそれまでの戦略論が精神的な要素を除外して、戦力の比較や計算などにもとづいた物質的・数学的（計算的）な側面に限定していると批判した。この章では、クラウゼヴィッツの戦略論から戦略とはどういうものかを見ていこう。</p><br />
						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p><br />
						<p>○戦略とはどのようなものか<br></p>

<p>							　戦略とは、簡単にいうと、戦争における勝利（政治的目的の達成）のための方法論である。戦略は戦争における個々の軍事行動（作戦や戦役）に戦争の目的に適合した具体的な目標を与えるとクラウゼヴィッツは述べている。そして、戦略とは、この具体的な目標を達成できるように個々の戦闘を配列することだという。いいかえれば、戦略によっていつ、どこで、どれだけの戦力で戦闘を行うかが決定される。したがって、戦略は、戦争全体と戦争における個々の作戦を計画するための準拠になる考え方（指針）なのである。<br><br />
							　戦争や作戦は長期間にわたるので、状況の変化に応じて計画の軌道修正や細部の決定が行われる。クラウゼヴィッツは、この場合にも戦略が計画の軌道修正や細部の決定への指針を提供すると述べている。</p><br />
						<p><strong><br />
							戦略の五要素</strong></p><br />
						<p><br />
							戦略で考察の対象となる軍事力は五つの要素に分類されるが、その中でも精神的要素はとくに重要である。</p><br />
						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p></p>

<p>						<p>○分類とその内容<br><br />
							　クラウゼヴィッツは戦略が考察の対象とする軍事力は、5要素に分類できると述べている。<br><br />
							１．精神的要素：精神的なものによってもたらさせるものすべて<br><br />
							２．物理的要素：戦力の量、編成、兵器の比率など<br><br />
							３．数学的要素：作戦を行う方向など軍事行動の計算<br><br />
							４．地理的要素：制高点※1、山地、河川、森林、道路のような地形の影響<br></p>

<p>							５．統計的要素：給養ための手段、すなわち兵站（ロジスティックス）※2<br><br />
							　軍事力の構成要素をこのように分類することは、精神的要素を別にして当時でも現在でも妥当なものといえる。しかし、普通は、戦力の量など物理的要素がもっとも重要とみなされているが、クラウゼヴィッツは精神的要素をもっとも重要なものとして位置付けた点が他の理論とは異なっている。<br><br />
						</p><br />
						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p><br />
						<p>○精神的な力の性質<br><br />
							　精神的な力は戦争のすべての要素と密接な関連性を持っているとクラウゼヴィッツは述べている。たとえば、あらゆる困難に打ちかって全戦力を指揮するためには強固な意志が必要であるという。この意志こそが精神的な力なのである。しかし、精神的な力は机上の学問として修得することはできない。クラウゼヴィッツがいうように、精神的な力は「数字でも等級でもあらわすことはできないので、目で見るか感じるほかはない」のである。<br></p>

<p>							　また、精神的な要素は他の要素と完全に融合しているので、他の要素をそれぞれ個別にとり出すことは無意味であるとしている。クラウゼヴィッツは「物理的な現象は槍の木製の柄にすぎないのに対して、精神的な現象こそ真の金属の本来の武器に相当する」と述べ、精神的な要素の重要性を強調した。</p><br />
						<p><font size="-1">※1制高点：良好な視界を与え、火力をもって周辺の地域を支配できる地点<br><br />
								※2物資の消費量や補給すべき量などはあらかじめ統計的に把握できるので、このように区分したもの</font></p><br />
						<p>戦略の構成要素（２）</p><br />
						<p><strong>三つの精神的な力</strong></p><br />
						<p>クラウゼヴィッツは主要な精神的な力として将軍の才能、軍の武徳、軍隊における国民精神の三つの力をあげている。<br></p>

<p>						</p><br />
						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p><br />
						<p>○三つの主要な精神的力<br><br />
							　前項では、戦略の考察の対象となる軍事力に関して五つの要素をあげ、その中でも精神的要素がもっとも重要であると述べた。さらに、クラウゼヴィッツはその精神的要素における三つの主要な精神的な力として将軍の才能、軍の武徳、軍隊における国民精神をあげている。<br><br />
							?将軍の才能：将軍の才能の重要性と必要とされる能力については「軍事的天才」などで述べられているとおりである。将軍は強固な意志、聡明な知性、実行力、機転などが必要不可欠であり、また、戦争に関する知識と能力を十分に身につけていなければならないのである。<br><br />
							?軍の武徳：軍の武徳とは、軍隊における服従・秩序・規則など高度な要求にしたがう統制のとれた高い士気を指す。また、個人レベルでは、戦争という特殊な事業に専心して、必要な能力を身につけ、私心をすてて任務に全力をつくす誇り高い軍人の精神を指す。軍の武徳は単なる勇敢さや戦争に対する熱狂とは大きく異なっているとクラウゼヴィッツは述べている。<br></p>

<p>							?軍隊における国民精神：フランス革命を経て国民軍が形成されるようになり、戦略の要素として国民と軍隊の関係が重要になった。国民全体の精神が軍隊そのものに反映されるようになったのである。軍隊における国民精神とは、軍隊にいる一人一人が独立した国家の国民であることを自覚し、祖国のために戦おうとする精神を持ちあわせていることである。<br><br />
							　このようにクラウゼヴィッツは三つの主要な精神的な力をあげ、戦略の考察の対象となる軍事力の中で精神的な要素がもっとも重要であることを強調したのである。</p><br />
						<p>勝利のための戦略的要素（１）</p><br />
						<p><strong>戦力の優越</strong></p><br />
						<p>戦力の優越は勝利のための原則だが、相手より絶対的に優越であることは困難であり、将軍は相対的な優越を獲得すべきである。</p><br />
						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p></p>

<p>						<p>○戦力の優越<br><br />
							　この項から、クラウゼヴィッツが言及しているさまざまな戦略上の原則について見ていこう。ここでいくつかの原則が示されるが、これらのすべてが時間的・空間的に相対的な戦力の優越を獲得する方法である。<br><br />
							　クラウゼヴィッツは「戦力の優越」は勝利のためのもっとも基本的な原則であると述べている。戦力の優越とは、自軍の兵数が敵を上回っていることである。この原則について、彼は、戦闘がおこったときの両軍の状態や態勢などの条件、さらに両軍の能力が同等だと仮定すれば、兵士の数だけが区別できる違いとなり、この兵士の数が勝利を決定することになるという。<br><br />
							　そこで、絶対的に優越であれば、すなわち戦力が全体として優越し、いつでも、どこでもこの優越を保持できるのであれば、勝利を得ることは確実である。この場合、戦略が機能する余地はほとんどない。しかし、このようなことは戦争においては期待できないとクラウゼヴィッツはいう。</p><br />
						<p align="right"><a href="#top">このページの先頭に戻る</a></p><br />
						<p>○相対的な優越の獲得<br></p>

<p>							　というのは、圧倒的な戦力の差があれば、そもそも戦争になる前に一方が敗北を認めてしまうだろうからである。また、戦争が行われる時間や空間は非常に大きいので、いくらか相手より優越だったとしても、常に絶対的な優勢を維持できるとは限らないのである。<br><br />
							　さらに、本来将軍が使用できる戦力（兵数）を決定するのは政府である。つまり、将軍は政府から与えられたこの戦力を受け入れるしかない。したがって、戦力が絶対的な優越に達しない場合でも、将軍は持てる戦力を効果的に使用して決戦場における相対的な優越を獲得しなければならないとクラウゼヴィッツは述べている。<br><br />
						</p><br />
						<p>勝利のための戦略的要素（２）</p><br />
						<p><strong>奇襲と詭計</strong></p><br />
						<p>相対的な優勢を獲得するためには奇襲が必要であり、成功すれば相手に与えるダメージも大きい。一方、詭計は戦略においてその必要性は低い。<br></p>

<p>						</p><br />
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						<p>○敵の意表をつく奇襲<br><br />
							　奇襲とは敵の意表をついて対応のいとまを与えないことをいう。クラウゼヴィッツは奇襲について次のように述べている。「奇襲は多かれ少なかれあらゆる行動の根底にある。というのも、これがなければ本来決定的な地点における戦力の相対的な優越を獲得することが不可能だからである」。つまり、戦力の優越を獲得するためには多少なりとも奇襲が必要となるのである。<br><br />
							　また、奇襲には精神的効果もあるとしている。奇襲が成功した場合は、敵に混乱や士気の低下を与えるのである。そして、このような奇襲を成功させる要素は秘密の保持と迅速さが必要だという。しかし、単に奇襲しただけでは勝利を獲得できるとは限らず、また奇襲は適切に行わないとかえって大きな損害をこうむる場合があると指摘している。</p><br />
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<p>						<p>○相手をあざむく詭計<br><br />
							　詭計とは、真の行動や目的を秘匿し、陽動や欺瞞※によって相手をあざむくはかりごとのことをいう。クラウゼヴィッツは詭計と戦略の関係について、戦略という言葉がギリシャ語の詭計に由来していることにふれ、軍事行動には多かれ少なかれ相手をあざむく詭計の要素があるため、戦略の本質にも詭計の一面があることを認めている。<br><br />
							　しかし、「陽動が戦略において意図した効果を挙げることはほとんどない。また、かなりの戦力を長期にわたって単なる欺瞞に使用することは、予想できない事態に際してこれを決定的な地点に投入できないという危険をともなう」と述べているように、クラウゼヴィッツは戦略において詭計を用いるのは大きなリスク※があるため、その必要性には否定的である。<br><br />
							※陽動は真の行動を隠すため相手の注意をそらすことであり、欺瞞は相手の目をあざむくことである。<br><br />
							※戦術とは異なり、戦略における空間と時間の広がりの中では失敗するととり返しがつかない。<br><br />
							 <br></p>

<p>							勝利のための戦略的要素（３）</p><br />
						<p><strong>空間的・時間的戦力の集中</strong></p><br />
						<p>戦力を決定的な地点に集中させたり、保有している戦力を同時に使用したりすることは戦略の原則である。</p><br />
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						<p>○空間における戦力集中<br><br />
							　決戦場での優勢の獲得は、勝利の獲得に不可欠の条件といえる。最良の戦略は常に優勢な戦力を保有することであり、それが不可能な場合でも決戦場では優勢を獲得するべきだとクラウゼヴィッツはいう。そして、その決戦場では「保有する戦力を集中させること以上に重要で単純な戦略上の原則はない」と、決戦場における戦力の集中を強調している。<br></p>

<p>							　しかし、戦力を分散することは何度となく行われてきた。たとえば、2?3方向から軍団を前進させて予定した戦場で合流させる会戦の方式がとられることがある（分進合撃）。この場合、あざやかに敵を包囲して勝利できるかもしれないが、ばらばらに前進する途中で敵の攻撃を受けて各軍団が撃破される危険もある。クラウゼヴィッツはこのことに対して強く警告を発しているのである。<br><br />
						</p><br />
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						<p>○時間における戦力の集中<br><br />
							　また、戦力の優勢を獲得するためには保有しているすべての戦力を同時に使用することであるという。クラウゼヴィッツは「このような戦力の使用は、すべてが一回の行動と決定的な瞬間に集中されればされるほど、より完全なものとなる」と述べ、一度きりの決戦に近いほどより効果的であるとした。<br><br />
							　一方、時間における戦力の集中で最悪といえるものは、必要数に満たない戦力を次々に投入して、そのつど撃破される例である。つまり、「戦力の逐次投入」は戦略においてもっとも戒めるべきことである。この失敗は歴史上何度も繰り返されてきた。太平洋戦争で戦局の転換点となったガダルカナルの戦闘では、日本軍は3回にわたって戦力を逐次投入したが、すべて撃破された。</p></p>

<p>						<p>勝利のための戦略的要素（４）</p><br />
						<p><strong>戦略的予備軍</strong></p><br />
						<p>予備軍は戦略・戦術の両方で必要である。しかし、決戦においては予備軍という手段は放棄され、すべての戦力が集中されなければならない。</p><br />
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						<p>○戦術的予備軍と戦略的予備軍<br><br />
							　一般的に、手持ちの戦力に融通性や余裕がなければ勝利することは難しくなる。このため予備軍の存在が必要となってくる。クラウゼヴィッツは戦術的予備軍と戦略的予備軍を備えておく必要があると考え、それぞれの予備軍が対応する2つの目的をあげている。<br></p>

<p>							　第1の目的は戦闘へのあらたな戦力の投入である。この場合は、ある1つの戦闘の継続を意図しているため戦略とは無関係であり、戦術的予備軍とよばれる予備軍が対応する。第2の目的は予測できない事態への対応である。この場合は、ある1つの戦闘においても1つの戦線（多数の戦闘が行われている区域）においてもありえるため、前者は戦術的予備軍、後者は戦略的予備軍とよばれる予備軍が対応するのである。</p><br />
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						<p>○戦略的予備軍の矛盾<br><br />
							　このように予備軍は重要な役割を担っているといえる。しかし、これら予備軍の必要性を認めながらも、戦略的予備軍の存在は戦力の集中という原則に反しているとクラウゼヴィッツは述べている。<br><br />
							　とくに、彼が「決戦のあとで使用が予定されているいかなる予備軍は不合理以外の何ものでもない」と断定しているように、決戦においては持てる戦力のすべてが集中されなければならないため、決戦のあとで使用するような戦略的予備軍を温存しておくことは意味がないとしている。<br><br />
							　そもそも戦力の集中と予備軍の必要性は相反する概念である。しかし、すべてがかけられた決戦では戦力の集中が優先されるとクラゼヴィッツは示唆している。</p></p>

<p>						<p>勝利のための戦略的要素（５）</p><br />
						<p><strong>戦力の経済</strong></p><br />
						<p>クラウゼヴィッツは戦力は常に目的に合致した分だけ運用し、できるだけ決戦以外で使用する戦力はできるだけ節約すべきだとした。</p><br />
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						<p>○不経済な戦力の使用<br><br />
							　無駄なことはしないという単純なことも、戦略における重要な原則である。クラウゼヴィッツのいう無駄とは、たとえば、敵が緩慢な行動をとっている時に戦力を行使しない、あるいは敵が攻撃している時に自軍の一部がまだ行進中であるような不経済な戦力（遊兵）の使用のことである。つまり、戦力を有効に活用し、常に目的に合致した戦力を使用することが必要なのである。<br></p>

<p>							　実際、戦いにおける勝利か敗北かは、決戦場における戦力の相対的な優勢を獲得できるかどうかにかかっている。このような場合に遊兵を出すことは、戦力の優勢の獲得をめざしてお互いに競争している中では決定的な不利をもたらすことになるであろう。</p><br />
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						<p>○戦力の節約<br><br />
							　戦力を経済的に使用するためには決戦以外で使用する戦力をできるだけ節約しなければならないとクラウゼヴィッツは述べている。確かに戦力の分散は効率がわるいだけでなく、戦力を集中するという原則にも反している。つまり、戦力の経済性と戦力の集中とは表裏一体といえる。<br><br />
							　しかし、このような戦力の節約は実際に実行することはなかなか難しい。多くの場合、指揮官はどこもかしこも確実に制したい誘惑にかられ戦力を分散しがちになるからである。たとえば、第一次世界大戦前、ドイツのシュリーフェン参謀総長はフランス軍を早期に撃破するためにドイツ軍の右翼を徹底的に強化する計画を立てた。しかし、後任者のモルトケ※は東部戦線のロシアにも、あるいはフランス軍によるアルザス・ロレーヌの突破にも不安を感じてそれぞれに戦力を分散してしまい、とり戻すことのできない敗因をつくってしまったのである。</p><br />
						<p>※ドイツ帝国の軍人。同名の大モルトケの甥。第一次世界大戦を事実上開始した。</p></p>

<p>						</p>]]>
        
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